から急に金切り声で叫び出した。
「おばさん出て行って下さい。……隠れて下さい!」
「誰も来やしねえだよ、誰も見えやしねえじゃねえか」老婆は悲しそうに泣き声をしぼった。
私は忍び足で戸口を出て来たがどうしたのか汗がびっしょりだった。その時私は誰かの小さな影が廊下のかどを慌てて横ぎったように思った。誰かははっきりと見分けがつかなかったが、おや、ほんとうに春雄ではなかったのかという考えがさっとひらめいた。私は急いでその曲り角まで行くと不審そうに辺りをながめた。果して私の推測は間違いではなかった。二階へ上る階段の裏側の薄暗い隅の方に、山田春雄が射すくめられたように身を隠したまま目を光らしていたのである。
「どうしたんだね」私は近寄って行った。
慌てて彼は首を振った。そしておびえたようにますます隅の方へ尻ごみした。何か隠し物でもあるのか、右の手を後の方へぎゅっと廻して放さなかった。今に悲鳴でも出しそうだった。
「母ちゃんの見舞に来たんだね」私は喉元が熱くなるのを感じながら云った。非常に感動したのだった。「母ちゃんは今も君が見たいと云っていたよ」
彼は一層強く首を振った。私は不満な気持になって彼の体を引き寄せた。彼は後手を放さなかった。それは何か白い小さな紙包を握りつぶして一生懸命に隠そうとしている。瞬間春雄は母のために何か持って来たのだなと私は思った。自分の母を見舞いに来ていながら人の前を憚《はばか》ったり、知られまいとしたりせねばならないのは、何と悲しいことであろう。私は寧ろ少年のそういう姿が何とも云えない程いじらしいものに思えた。私は云った。
「きっと母ちゃんが喜ぶよ」
その時突然彼は私の体に頭を埋めながら啜り泣きをはじめた。
「莫迦だな」
彼はますます激しく泣いた。その時どうしたはずみか白いもみくしゃになった小さな紙包がずり落ちた。私はそれを見て少からず異様な気持になった。きざみ煙草の紙包である。それは私が今朝起きた時に、机の上や抽斗《ひきだし》の中を随分さがしたがとうとう見附からなかった「はぎ」の古い包である。
「なあんだ、それで先生をこわがっているのか。ただ先生にそうことわって持って来ればよかったんだよ。さあ、これからそんなことは気を附ければいいんだ。それ、それ、母ちゃんが待っているよ、持って行っておやり、左側の三番目の部屋だよ」それから彼を元気附けるように肩をたたいてやった。「何だ、山田らしくもない。これからな、先生は協会へ帰って待っているよ。君が来たら昨日約束したように二人で上野へ遊びに行こうね」
彼はわーと泣き出した。私の心もゆらいでいた。だが病院の中にいるのは彼をますます窮屈にさせるだろうと思ったので、彼に病室を教えてから私は急いでそこから出て来た。そして何故彼が私の所から煙草を持って来たのだろうかといろいろと考えをめぐらしてみた。彼の母が吸うのだろうとしか想像がつかなかった。何という思わぬだしぬけたことをする少年であろう、私にはその時にも半兵衛が監房の中で上服を壁にかけてにたにたしていたことが思い出された。
五
一時間ばかりして山田春雄は再び私の前に姿を現わした。だが彼は指を口に咥《くわ》えたまま足元ばかり眺めていた。何だかすっきりした安堵もあるのだろうか。口元が今にも綻《ほころ》びそうにさえ思われた。何か素敵な事をした子供が大人の前でてれているようでもある。今まで彼の面上にこれ程素直な子供らしい影が現われたことがあろうか。彼はもうすっかり私を信じているのに違いなかった。だが私もひそやかに微笑を浮べるだけで何も訊かなかった。「さあ、出掛けようか」と帽子をとり乍《なが》ら一言云っただけである。
前夜の嵐の後をうけてうすら寒い位の午後だった。広小路で市電を下りた時は丁度日曜で押し合いへし合いの雑沓ぶりである。いつの間にか呑まれるように松坂屋の入口まで来たので、私は別に用事はないものの彼の手を引いてはいって行った。中も非常に込んでいた。春雄がエスカレーターに乗ろうというので二人で並んで乗った時は、さすがに彼は幸福そうで晴々としていた。私もみちあふれるような歓びを全身に感じた。少年春雄は今|凡《すべ》ての人々の中にいるんだという考えが、私にはどうしても不思議な程に嬉しくてならなかった。彼は春雄であると同時に今は私の傍に立ち又人々の中にもいるのだ。二人は相並んで三階まで運んでもらった。そこでも人込みの間を縫いながら私達は五階か六階かの所まで上って行くと、食堂の一隅に向い合って腰を掛けたのである。だがその実二人は必要以上の言葉はいくらも交さなかった。彼はアイスクリームとカレライスをとり私はソーダ水を飲んだ。
「うまいかい」
「うん」彼は皿の上に顔をつけたまま私を上目で見た。「デパートのカレライスはうまい
前へ
次へ
全13ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
金 史良 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング