わる見守った。
「野郎やりやがったな」彼は如何にも切り口上で出た。「この朝鮮人野郎、おれを見損いやがったな」
 彼は腕をまくし上げた。その時廊下を歩いていた看守が格子窓から覗き込んで、
「山田、坐っておれ!」と呶鳴ったので、それを聞いて私は彼が内地人であることをはじめて知った。
 彼はにたっと歯をむき出して笑うと、大人しく自分の席へもどった。そこで用もなしに上服《うわぎ》をとって外から見えないように壁にかけるとけろりとしていた。弁当の箸を折ってそれを釘のようにさし込んでいた訳である。私は思わず吹き出しそうなのをやっとこらえた。その時に彼のすぐ傍で居眠りをしている鬚《ひげ》もじゃな小男が頭を彼の方へもたせかけたと見るや、いきなり彼は荒くれた拳骨《げんこつ》を男の頭上へごつんと打ち下ろした。そしていかにも凄い権幕でにらみつける。その夕彼は私には弁当を渡さなかった。自分でがつがつかき込んで貪《むさぼ》り食べていた。私にはその瞬間の彼の様子が今にも見えるような気がする。それでいつだったか、春雄が食事をしている所を見てふと半兵衛のことを思い出しそうにさえなった程である。
 彼は一人の卑怯な暴君だった。みなに恐れられながらも陰では非常に憎まれていた。彼は必要以上に看守の目を恐れているが、そのかわり新入者や弱い者に対してはひどい乱暴をしていた。中でも物凄い権幕で啖呵《たんか》を切ることは、彼の最も得意とする所に属するらしかった。「こちとらはな、これでも江戸八百八町を股にかけて歩いて来た男なんだ。余りふざけるねえ、手前のようなこそ泥とはちと訳が違おうぜ……」
 留置場の様子から見れば、彼の他に相棒と思われるのも都合六七人はいた。彼の啖呵に従うとすれば、彼等は浅草を縄張りとしている高田組で、有名な俳優連を恐喝して大金をせしめたのだった。その中で自分はいかにも最|猛者《もさ》のように云いふらした。だがどうやらその連中の中でも「足らず者」という意味で、半兵衛と呼び捨てにされているらしいのはすぐに分った。私は今だに彼の本名を知らない。その中に私は彼にも馴れて来たし彼の素性もほぼ理解することが出来た。それと共に私の席もだんだん彼に近づいて行った。というのは監房内では古い者程格子扉の傍へ近附くようになるからである。ついに私は半兵衛と向い合って坐るようになり、寝る時は丁度隣り合うようになった。彼は私に対してはもはや温順しくなったが、しかし一緒に寝るのは私にはひどい苦痛だった。彼の口臭も我慢ならない程臭いけれど、何より一晩中股ぐらをごしごしかいて明かすのである。自分でも梅毒だと云った。私はもうそれが頭にまで来ているのだろうと考えた。いつかの夜半彼は妙にしんみりとなって私に質ねたものである。
「君は朝鮮のどこだい?」
「北朝鮮だ」
「おらは南朝鮮で生れたぜ」彼はずるそうに私の気色を覗《うかが》うのだった。そしてひーんと打ち消すように鼻で笑ってみせた。だが私は強いて驚くような気色を見せまいとした。
「そうか」
 すると彼は歯をむき出した。
「ほんとうだよ」
 勿論こういう話は二人でこそこそと云いかわすのだ。
「おらあの女房も朝鮮の女だぜ」
「ほう……」私は思わず目を丸くした。
 彼はいかにも小気味よさそうににやにやした。私は彼に何か訳合があるに違いないと考えた。
「朝鮮に行って貰ったのかい」
「おかしくって、面倒臭せえや。じかに洲崎の朝鮮料理屋に親方とかけ合いに行ってさ、この女をおらあの手に渡せ、でねえとこっちが承知しねえぞ、障子に火を附けてやらあとおどかしたんだ。すると野郎たち蒼くなってくれやがった訳さ」
 彼はじろりと横目で私を見た。折しもさし込んで来た夜明けの月の光にその目は一層凄惨な影を宿していた。
 だが翌朝はけろりとして、いつ自分がそんなことを云ったんだろうというような調子である。やはりいつものように弱い者をいじめ、新入者の弁当は取り上げた。だが私はその晩以来ますます彼のことを不審におもうようになった。それでも彼が警察の中で山田と呼ばれているからには、内地人であるに違いなかった。それでは彼の母が朝鮮人であるかも知れないと考えたが、ついぞ確かめることが出来ずに私は起訴猶予となって出て来たのである。――
 そして私は今ようやく彼のことを思い出したのだった。私は何という迂闊《うかつ》さであろう。苗字の符合からしてもそれ位はとうに感附いていそうなものではないか。最初に山田春雄を見た瞬間から、私の眼の前には半兵衛の映像がかすかながらの光芒をもってちらついていた筈だった。だが私はそれが半兵衛であることに気附くことが出来なかった。或は春雄に対する愛情からして、ひそかにそれが半兵衛であることを私は怖れていたのかも知れない。
「半兵衛」私はもう一度静かに呟いた。
 だ
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