が春雄はすやすやと心よい眠りにおちている。私の網膜には、
「おらあの女房も朝鮮の女だぜ」と云っていた半兵衛の卑屈な笑い顔が幾重にも浮び上って来た。するとそれがいつの間にか今度は春雄の寝姿の上にのりうつってしまった。その時かすかに春雄は呻き声を出したようである。彼は顔をひくひく痙攣させたと思うと、うーうーうなされながら寝返りをうって驚いたように目を瞠った。
「どうしたんだ、夢でもみたのかい」
 私は汗だくになっている彼の首筋をふきながら訊いた。
 彼は再び目をとじると譫言《うわごと》のように呟いた。
「父ちゃんが今度は僕を片附けるんだって」

   四

 私も一晩中うつらうつらとしてとりとめのない夢ばかりみていた。朝、目をさましてみたらもはやそこには春雄はいなかった。私は驚いたように相生病院へ行ってみればいいのだと自分に云った。その日は日曜日で春雄にも学校がない筈である。いつの間にか私はそこの玄関に立って呼鈴を鳴らしていた。丁度よく尹医師が出て来て、私を春雄の母親の病室へ連れて行きながら云った。
「何でも山田貞順という名前になっているよ。朝鮮の人じゃないんだね。言葉の調子や貞順という字づらがおかしいと思って、負傷した瞬間の模様を朝鮮語で訊いてみたが口を噤《つぐ》んで答えないんだよ。ただ倒れたのだと日本語で云うんだ」
「ううん、そうか」私はしどろもどろで云った。「傷は大丈夫かい」
「まあ、大丈夫だよ。だがどうしても顔面に刀傷の痕はつくんだろうね。全く気の毒な程ひどい傷がこめかみの所に出来るんだよ。そうれ、あそこなんだ、……山田さん、お子さんの協会の先生がいらっしゃいましたよ」
 春雄はいなかった。十二畳位の部屋に寝台が五つ程交互に並んでいて、いずれにも病者が沈み込んでいた。その隅の方に彼女が横たわっていた。白い繃帯でぐるぐる巻かれた顔の中に口と鼻の所だけが少しばかり明いてみえる。彼女はじっとしたまま何も答えない。尹医師は回診のために席をはずしてくれた。私は彼女にどういうふうに話しかけたものだろうかと一寸ばかり当惑した。
「どんなにかお痛みのことでしょう。春雄君も随分心配していたようです」とつい言葉のはずみで山田のことをひっぱり出した。「実は私、春雄君の通っている協会の先生だもんだから……私、南《なん》と申します」
 彼女は心なしか少しばかり体を動かしたように思われた。きっと彼女は私が朝鮮の苗字をしているので驚いたのに違いないと考えた。
「あ、あ」彼女は指先を小刻みにふるわせながら呻いた。
「春雄……春雄がほんとうに妾のことを……」
「…………」私は答えるに言葉がなかった。
「あは」彼女は感動の余り嗚咽《おえつ》した。「妾の春雄が、ほんとうに……妾を心《すん》配すると……云ったでしょうか……」
 私もほろ苦い気持になった。だがいきおい春雄のことで彼女を慰めねばならなくなった。
「私は毎日春雄君と遊んでいるのです。時にはいろいろ気を落しなさるようなこともあるでしょう。だがまだほんの子供だし、その中にはきっとお母さんとしても自慢の出来るような春雄になると思うのです」私は実際にもそう考えていた。彼に今日の性格を与えたいろいろなものに思いを馳《は》せて、温かい手をさしのべ指導して行くならば、必ずや彼はだんだん深い自分の人間性に目覚めるであろうと信じた。
 だが彼女は答えなかった。息を殺して私の云うことに注意を向けているばかり。私は続けた。
「始めはやはりあなたが春雄を連れて朝鮮へ帰るよりほかはないと考えました」
 彼女はびくっとした。
「あなたのためにも又春雄の将来のためにもそれが一番いいと思ったのです。だが、あなたにはやはり今も半兵衛さんを大事にするような気持があるのでしょうね」
「アイゴ……何も訊かないで下さい」彼女は小さな声で哀れ深く云った。「私の主《す》人ですもの……」
「何も隠しへだてなさることはないと思います。私はかねがね半兵衛さんのこともよく知っているのです」
「あ」と彼女はさすがに驚いて声を呑んだ。彼女は全く沈没したように呻いた。「……でもあの人、妾を自由な身にしてくれました。……そして妾、朝鮮の女です……」しまいはもう咽《むせ》び声になっていた。
 彼女は今もやはりこういう奴隷のような感謝の念をたよりにして生きているのだろうか、私は無道な半兵衛のことを思い出してたとえようもない愁然とした気持になった。いつか洲崎の朝鮮料理屋をおどかして連れて帰ったというのは丁度この女である筈だった。卑怯で残忍な半兵衛にしてみれば、この寄るべない朝鮮の女にいかにも目を附けて貰い受けそうな話ではないか。彼女は始めから彼のいけにえとして択《えら》ばれたのに過ぎない。あの怖ろしい薄莫迦の半兵衛に比べればこれは又何といういたいたしい婦であろう。私に
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