はどうしたことか、かっとなって呶鳴《どな》った。確かに私は彼の出現に戸惑いしたのであろう。
「山田はこのひどい雨の中にやって来たんです。そして帰るに帰る所がないんだ」
「誰が帰る所もないと云うのです? あの気の毒な婦人こそそうです。今の餓鬼は自分のおやじの所へ行けばいいんだ。ああ呪われろ、悪党奴!」それから急に彼はへなへなになって哀願するように啜り泣いた。「どうして先生はあの気の毒な婦に対して同情しないんです。あの可哀そうな婦のことを考えないのです……」
「どうか止めてくれ」私は頼むように云った。私の言葉はふるえていた。どうしていいのか頭がくらくらして分らなかった。
「先生……」
「止めてくれんのか!」私は突然断末魔のような叫び声を上げた。気まで狂いそうだった。
 彼はよろよろと立ち去った。私は激しい格闘でもした人のようにぐったりとなって壁によりかかった。
 勿論私は純情な李を理解することが出来るのだと自分に云った。過去において私自身もそういう時期をとおって来たからである。だが私はその次の瞬間、自分が現在は南《みなみ》と呼ばれていることがじーんと電鈴のように五官の中へ鳴り響いて来るのを感じた。それで私は驚いたようにいつもの様々な云いわけの理由を考え出そうとした。だがもはや駄目だった。
「偽善者奴、お前は又偽善をはろうと云うのだな」私の傍で一つの声が聞えた。「お前も今は根気が続かなくて卑屈になって来ているじゃないか」
 私はびっくりし、それからさげすむように云い返した。
「卑屈になるまい、なるまいとどうして僕はいつもいきまいていなければならないんだ。それが却って卑屈の泥沼に足をつっ込み始めた証拠ではないか……」
 だが私はしまいまでを云い切る勇気がなかった。今まで私は自分がすっかり大人になっていると思い込んでいた。子供のようにひがんでもいなければ、若者のように狂的に××してもいないのだと。だがやはり私はお安く[#「お安く」に傍点]卑劣を背負い込んだまま寝そべっていたのだろうか。それで今度は自分に詰め寄った。お前はあの無垢な子供たちと少しも距たりをもちたくないためだと云った。だが結局、自分をしきりに隠そうとするおでん屋に来た朝鮮人とお前は何が違うと云うのだ! そこで私は抗弁のためとでもいうように李のことをやりこめようとした。それなら一時の感傷にせよ激情にせよ「俺は朝鮮人だ、朝鮮人だ」と喚いているおでん屋の男と、貴様は一体何が違うと云うのだ。それは又自分は朝鮮人ではないと喚き立てる山田春雄の場合と本質的な所、何の相違もないではないか。私は毛色の違うトルコ人の子供でさえこちらの子供と角力をとりながら無邪気に戯れているのを見る。だがどうして朝鮮人の血を享けた春雄だけはそれが出来ないのだ? 私はその訳を余りにもよく知っている。だから私はこの地で朝鮮人であることを意識する時は、いつも武装していなければならなかった。そうだ、確かに私は今自分一人の泥芝居に疲れている。
 私は暫くの間そのまま茫然としていた。もう李はそこにはいなかった。私はよろめくようにして自分の部屋へ帰って来た。
 部屋は薄暗かった。私は春雄の寝床の傍へ近寄って行った。その時私ははっと驚いて目を瞠《みは》った。えびのように体をちぢかめて自分の右腕を枕にし目を半ば開いたまま寝ついている山田春雄の寝姿。私は思わず口に手をあてて声をかみ殺した。
「あっ、半兵衛の子だ!」とうとう私は思い出したのだった。今まで目の前にちらつきながらどうしても思い起せなかった、半兵衛。「半兵衛の子だ!」
 私は顛倒せんばかりに驚いた。あ――これは又何ということであろう。私はこういう恰好をして寝ている半兵衛をどれ程長い間見て来たのか知れない。だらしなげにぽかんとしている口や、大きな目に老人のような隈がふちをえがいている様までも、父に丸うつしではないか。その子が又そっくり同じ様子をして私の傍に寝ているのだ。実に私はその半兵衛とは二カ月余りも同じ留置場に寝起きしていた。彼のことを思うだけでも背筋には冷っこいものが走るのを感じた。それは私が一層春雄を愛しているからである。私の脳裡には一瞬間、この変質的な春雄がしまいには父のような人間になりはせぬかという怖ろしい予感が走ってぞっと身慄いした。
 思えば先年の十一月のことである、私がM署の留置場で半兵衛に会ったのは。その時彼はにやにやしながら私の方へ寄りかかって来た。皺《しな》びた馬面《うまづら》に大きな目がでれりとして薄気味悪い男だった。だがおや朝鮮人だなと私は思った。
「おう! お前のシャツ貸せ!」彼は私の洋服のボタンをはずしかけた。私は幾らか興奮していたので、無造作に振りきって隅の方へ腰を下ろした。他の連中は皆何かを気味悪く期待するような目附で、私たちをかわるが
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