事をどうしたのか、まともに考えてみようとはしないのだった。私自身その怖ろしさにけおされていたのかも知れない。私はただ目を蔽いたかった。
その時に凄じい風が吹き附けて唸りを上げ、どーんと勝手口の扉が吹き飛ぶような音が無気味に響いた。一同はびくっとして息を殺した。近寄って行った婆やはあっと悲鳴を上げてたじろいだ。駆けて行って見れば、扉は倒れ雨と風の中に山田春雄が竦然《しょうぜん》として立っていた。折も折、稲光りがぴかぴか光ってそれは幽霊のようにおののいて見えた。
「どうしたんだ、春雄」私は彼を抱え込んではいって来た。そしてそのまま二階の自分の部屋へ上って行った。何とも云えない気持だった。ずぶ濡れになった着物を脱がし、タオルで体をふいて寝床へ横にさせた。彼の体はわなわなふるえていた。熱いお茶をやると何杯もがぶがぶ飲んだ。そこで漸く元気を取り戻して、悲しそうに私を見上げるのだった。私は何となく胸の中も打ち解けるような、ほかほか温かいしんみりとしたものを感じた。この少年は又どんなことがあって、こういう嵐の夜中をやって来たのであろう。
「病院へ行って来たのかい?」
彼は口をひくひくさせたかと思うと急にいーと引張るように泣き出した。
「莫迦だな、泣いたりして」
「違うんだよ。病院へ行きやしないよ。行きやしないよう」
「まあ、いいよ」私の声はかすれていた。「まあいいんだよ」
「うん」
彼はすぐに安心したように肯いた。そこでぽかぽか暖かそうに蒲団の中に足をのばして首をすぼめて見せた。私にはそれがこよなくいじらしいものに見えた。彼の目はきらめき、口元はにっこりと微笑を浮べたのである。すっかり私に心を許したというものであろう。私は彼の心の世界にもこういう美しいものがひそんでいるに違いないと考えた。本能的な母親に対する愛情にしろ、どうしてこの少年にだけ欠けていると考えていいのだろうか。それはただ歪められたのに過ぎないのだ。私は近所の人々からいためつけられ擯斥《ひんせき》されている一人の同族の婦を想像した。そして内地人の血と朝鮮人の血を享けた一人の少年の中における、調和されない二元的なものの分裂の悲劇を考えた。「父のもの」に対する無条件的な献身と「母のもの」に対する盲目的な背拒、その二つがいつも相剋しているのであろう。殊に身を貧苦の巷に埋めている彼であって見れば、素直に母の愛情の世界へひたり込むことをさし止められたのに違いない。彼はおおっぴらに母に抱き附くことが出来ない。だが「母のもの」に対する盲目的な背拒においても、やはり母に対する温かい息吹はひしめいていたのであろう。彼が朝鮮人を見れば殆んど衝動的に大きな声で朝鮮人朝鮮人と云わずにはおれなかった気持を、私はおぼろながらに理解出来ないでもない。だが彼は私を見た最初の瞬間から朝鮮人ではあるまいかと疑いの念を抱きながらも、始終私につきまとっていたではないか。それは確かに私への愛情であろう。「母のもの」に対する無意識ながらの懐かしさであろう。そしてそれは私を通しての母への愛の一つの歪められた表現に違いない。その実彼は母の病院へ訪ねて行くかわりに私の所へやって来たのかも知れないのだ。母を訪ねる気持と何が違うのであろう。こう考えて来ると私はたとえようもない悲しい気持になって、彼のいが栗頭を撫でてやりながら、強いて笑顔をつくり、
「母ちゃんの病院へ行こうかい?」と質ねてみた。
彼は悲しそうに首を振った。
「どうして?」
彼は答えなかった。
だんだん嵐もしずまりかけたのであろう。小雨が時々思い出したように軒をふりたたいている。私は窓を開けてそろそろ晴れ渡りそうな空を眺めた。遠い北の方の空にはちぎれ雲の合間から、二つ三つ星さえ光り出していた。
「もう晴れそうだよ、ねえ、君、これから一緒に見舞に行ってみる?」
答えがない。見れば彼は蒲団をすっぽりと被っていた。
「父ちゃんは行ったのかい」
「行くもんか」後は蒲団の中でやや反抗的に云った。
「おかしな父ちゃんだね。母ちゃんが気の毒じゃないか」
「…………」
「それなら父ちゃんの所へは帰るつもりだね。父ちゃんだってきっとうちで心配しているよ」
「…………」彼は顔を出してすねたような目附をした。「僕はここでいいよ」
「うん、そりゃ……」私はしどろもどろ仕方なさそうに云った。「ここでもいいけれど……」
丁度数学の授業がひけたとみえて、廊下がどやどやざわめき出した。暫くするとドアにノックがして李が悄然と現われたが、山田の寝ているのを見るとはっと顔をこわばらせた。私はいささかあわて気味に、外へ出て話しましょうと彼を廊下へ連れ出した。
「先生は朝鮮人呼ばわりされるのに困って」と彼は罵るように叫んだ。「あいつをいよいよ抱き込もうと云う訳ですね」
「失礼なことを云うな」私
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