が、力の美であつて、「力」といふ概念は美でも何でもない。多くの男性美と云はれる、考へにはこの概念的な力を、直に力の美と混同したものが多い。それ等には多く、筋肉の力感の誇張、力にみちたる如き肢体等をみるがその意図は、多く、美に列する理解が概念的で浅薄である。
仁王様などといふものにしても、どうもいゝものは少い。これは必ずしも男性美といふ様な概念から生れてはゐないが、その美的意図が「動」の美にあるだけに、どうもしんみりした美の安定の気持を欠く。これに比して仏像は、その本体は大体に於て男性である可き筈であるのに、静寂とか無限とかを表はすために多くその形式が優美端麗柔和等の女性美又は曲線美をとつてゐる。
ミケルアンヂエロの彫刻や壁画等は、さういふ風なところがあるのでどうも余の審美感を満足させない。ミケルアンヂエロは無論相当偉大な人間にはちがいない、しかし、私は、芸術には更にもう一つ深いところのある事を他の芸術家たちによつて教へられる。
ここに男性の肉体を描いて、而もその力感を描いて、それが実に深い美をして表はされてゐる画がある。即ち、レオナルド・ダヴインチの背向きの男の裸体画であるが、こ
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