れ等は全く、男の裸体を描いたものゝ白眉であらう。又仁王様では私の知つてゐる範囲では大和法隆寺の入口にある二体の仁王様が素晴らしくいゝものである。
これ等を見ると、その線には決して概念的な「力」がない。その表現は要するに「静」を目指してある。レオナルドの裸にしても、その双の手と、双の足を心持ち開いて、どつしりと立つてゐる感じは永遠の安定を思はせ、その線やその黒白のトンは比重の感じを持つてゐる。其他レオナルドの男の顔を描いた素描《すがき》等に実に男性としての美を表はしたものが多くある。これ等は、他の男子の肖像画とはちがつて、「男性」としての美が描かれてあると思ふ。他の男子の肖像画は肖像としての美であるが、レオナルドの或る素描《すがき》には、男の美、荘重、叡智、自信、安定等の美感が深い美に於て表現されてゐると思ふ。
其他ギリシヤの彫刻などで男性をとりあつかつたものがあつてそれ等は美術として立派なものであるがしかしそれ等の美は男性美ではなく、むしろ所謂男性美を捨てたところにその美の出発があるから、これは問題外である。
だから、男性美といふ様なものも必ずしも浅薄なものではなく、描く人によつ
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