。只綺麗とか優美とかいふ事は、美の表はれ方に於ては最も普遍的であつて、分りやすいものであるため、大体に於て、美術に於ける最も深い感じは「綺麗」とか優美とかの美の他に於て表はされる場合が多い。しかし、必ずしも絶対にさうなのではなく、フロレンスの古い大家のフラアンヂエリコとか、レオナルドの素描《すがき》とか、支那の古大家李竜の或る画などは、一見して優美に、端麗で、美くしいものでありながら而もその深さは世界に幾つといふ程の深さを表はしてゐる。
だから、必ずしも、綺麗なものは浅いといふ事は云へない。力の美といふ事は、綺麗といふ事から見ると一歩、美の形式としては進んではゐる。つまり幾分専門的な審美感がないと分りにくい美的要素である。しかし、それだからとて、力の美が綺麗の美より深いといふ事は云へないのは前述の理由で明かである。
のみならず、力の美といふものは、綺麗とか優美とか云ふものよりは、美の形式としてずつと、局部的な、そして狭いものであるだけに、どちらかと云ふと、力の美だけで独立して最も深い美的主観を表はすといふ事はむつかしい事になる。だから、その主観さへ深ければ、力の美でも最も深いものを
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