う有望な人がつまらぬ習慣に引っかかっていないとも限らない。少くも諸君が、もう一層熱心に、燃えて来たら、その仕事は捨てなくてはなるまい。そして、洋画法を執るならば少くも今日よりはよりよき芸術的経験を君たち自身が感味するだろう。この事はもし現われるとしたら、今日の画壇にとって或る喜びであろう。よき芽はよき畑にまかれる必要がある。ついでだからいうが今日の展覧会に行ってみると、画が皆大きすぎる。あんなでっかいものを何だって描くのだといいたくなる。美を本当に見ると、あんなまねは出来なくなるものだという結論だけを、ここに唯かきそえておこう。
 尤《もっと》も今日の日本画家の中《うち》に面白い道を切り開きそうになっている人が少しはある、まだいられるかもしれないが知らない。小林古径《こばやしこけい》君のものや、名は忘れたが国展の選外かに古池と古寺?かなにか描かれた人のもの、その他の会場で皆名を忘れたが二、三の人のものによき素描の芽を見た。唯その上に欲しいのは力だ。(力強い画という意味ではない)もう一つ深い味だ。魅力でももう一つ力が欲しい。
 僕として、日本画をかくとしたら白描か、黒白《こくびゃく》を主
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