応挙以後である。徳川中期以後である。
その前の化けものの画はまだ完全に幽霊をモティフにしたものはなく、大てい妖怪をモティフにしている。
これは、画の描き方の変遷によるのであって、徳川中期以後にはつまり、幽霊の幽霊らしさを描く技法なり、画の傾向なりが適して来たから、さてこそ、幽霊画というモティフも、おのずと生れて来たわけで、画法の変遷と、モティフの興廃とは有機的に混一しているものである。徳川中期以前はつまり、その画法なり画的興味なりが、むしろ妖怪を生むのに適切であったと思える。
さて、前おきが長くなったがところで幽霊には足のない方がより実感的であるという訳は解ったはずである。それなら何故幽霊に足がないか。
この事を話す前に、私は私の見た幽霊の事を話そう。それは無論、半分夢のさめかけた時にみた幻覚だが、八、九年前私は夜中、ふと、自分のねている蒲団《ふとん》の裾《すそ》の方に、髪をおどろにふりみだした女が、手を以て顔を掩《おお》うているのを見た。驚いて、ひとみをこらす中《うち》意識がはっきりして来たらそれは夢の一種のつづきで、襖《ふすま》をもれる隣室の電気の光を、夢でみていたものとむすびつけてそうみていたものという事が解った。
そしてその時私は、なるほど、幽霊には足がないなと思った。何故なら私のみたそれは、頭と手と胸の辺だけであとはボーッとしていたからである。
この事が幽霊が主観的のものだという事の一つの証拠にもなるのだが。人は誰でもその知人の事を考え、その知人を思い出す時胸から上を考えるのが当然で、その人の足を考える人はめったにない。特に足に異常のある人とか、ともかく足という事に特異の注意のないかぎり、人はその人の胸から上を思う。
この事が幽霊に足のない理由で、幽霊を幽霊らしい感じに描こうとするものはどうしてもその実感を実写的に写さねばならぬのである。
次にそれなら何故妖怪には足があるか、三つ目入道、河童《かっぱ》、天狗等のポピュラーなものから、前述、あかなめ、こだま、かあにょろ、朱《しゅ》の盤、等の特殊な妖怪に至るまで皆、五体をそなえた現実的な姿をしている。かまくら時代の百鬼夜行の絵巻物には、この妖怪がへんに生々《なまなま》しくかけているが、皆足を持ち、様々な姿態をつくして活動している。
これらの画は、つまり一つの「怪」とか、「鬼気」とかいう無形の実感[#「実感」に丸傍点]を、その時々の感じに応じて様々に具象させたもので、画工の想像力によってよりぴったりとその「怪」「魔」「鬼気」等の無形の実感を表現させたものである。
更にまた、われわれは、物象を一つじっと見ているとその実在感が変に神秘的に見え、時によるときみ悪くみえて来る事がある。妖怪変化の中、器物に手足が生《は》え顔が生じたり、している奴があるが、これらはそういう実感を具象したものである。
幽霊の方はどっちかいうと、幽霊の幻覚がモティフになっているから足がないのであるが、これに反して、妖怪に足のあるのは、それが全然、想像的な創作だからである。殊に、目のないところに目をつけたり手や足を生やすことが一つの「怪」の気持をなすからで、此処へ行くと幽霊の方が、リアリスチックであるが、またそれだけに「怪」としての味ではポピュラーである。
一つ目小僧の味
私は一目小僧という妖怪を、妖怪創作家としての日本民族の一つの大なる傑作だと思っている。
ちょっと考えると、この妖怪は少しも恐ろしい事はないむしろ滑稽《こっけい》な幼稚な想像のように思えるが、その人はまだ一つ目小僧の本質の味を味識していないのである。
一つ目小僧というものを、普通にとりあつかっているよりもっと進んだ感覚でとりあつかってみる時、即ち、もっと、リアリスチックに、生きたものとして感じてみる時、皮膚を持ち肉を持った生きたものとして感じてみる時、それは誠にきみのわるい、生々しい、そしてミスチックな生きものである。
一つ目小僧を滑稽なものと感じる感覚は一つ目小僧を生のものとして感じず、張子《はりこ》か何かの細工ものとしてのそれを考えているからである。三つ目小僧の如きに至っては、一つ目小僧の如く実感から生れたものでなく、一つ目に対して、三つにしたものか、普通人の二つ目に一つを加えてこしらえた、考案から成り立った概念的なもの故、それはどうしても張り子のでく[#「でく」に丸傍点]のような感じがともなう。まして、ろくろ首にしたり、鉄棒を持たせたり大入道《おおにゅうどう》にして、ラングイヒゲを生やしたりすると一層滑稽になる。
一つ目の味はぬるりとしたちょっと奇形児の如《ごとく》なきみのわるいところにある。一体日本の妖怪の凄さはそういうところにある。この事は後項にややくわしく考えよう。
ともかく一つ目の味は、へんに生きたようなきびのわるいところにある。短身で、頭がひどく大きく、色は白く、口があかい。こういう奴はどこかにいそうな感じがある。
一体目というものはミスチックなものだ、近代フランス美術界[#「美術界」に丸傍点]で名うて[#「名うて」に丸傍点]の、ルドンも一時|盛《さかん》に目の玉をかいたものだ。大きな目の玉だけが、空中に太陽のように輝いている図などもあったが相当にミスチックなへんな夢のような感じがとらえてあった。彼は一つ目をもっと端明に、エキスプレスして表現したものだといえる。
しかし東洋の一つ目の方がどうもリアリスチックでへんに味が濃く、きみが悪いと思う。
日本妖怪の病的感
日本妖怪の感じは概して病的である、前項にちょっと一つ目小僧の感じが奇形児に似ている事をかいたが、古い画巻《えまき》の中に図の如き妖怪を描いてあるのを江馬務《えまつとむ》氏の著の中にみた事がある。これらは全然アルコールづけの奇形児である。
[#挿絵(fig46521_03.png)入る]
この事は一見古人が、妖怪を表現するために、自分のみた病人や奇形児からヒントを得てその形をかりたというようにも考えられるが私の考としてはそれは少し概念的な考え方だと思う。勿論そういう点もあろうが、私にいわすと、きみ悪いものを描こうとするとどうしても「病人」の感じとなり、デカダンスが形をとろうとすればどうしても、この世に現在する生存上のデカダンス、即ち、病気とか、奇形とか不具とかの形而《けいじ》と一致して来る。それが一つの形而的法則であるという風に思える。
日本妖怪の味は、生きものの、きみ悪さというものを生かしている。人は美人の髪をみて甚だ美くしいと思い、その腕をみてはなやましくも思うだろうが、もし、如何に美人のでも、髪が切って落ちていたり、腕や足が離れてそれだけあったりしたら正にきみの悪いものである。離れて落ちていないでも、ただ腕や、足というものなどだけじっとみているとへんに生きもののきみ悪さがある。そのきみの悪さを日本妖怪の作者は掴《つか》んでいるのである。
壁から手の出る話は『旧約聖書』にもあるが、日本の便所や天井から出る手は正に凄い。例の『四谷《よつや》怪談』では御岩《おいわ》様の幽霊は概念的作品であまり凄くない。凄くしようという意図の方が凄さの実想より先に見えるからだが、その中にただ、盥《たらい》の中から青白い手の出るところがある。これはちょっと怪《もののけ》の感じが出ている、『四谷怪談』中の唯一の怪味であろう。『源平《げんぺい》布引《ぬのびき》の滝《たき》』で女が腕を生んだといって、青白い腕がしきりに活躍する芝居があるがあれもちょっとグロテスクだ。こういう風に、日本の妖怪には切りはなされた肢体《したい》を非常に実想的にとりあつかってある。これらも「病的感」「不具感」である。
ともかくも日本妖怪の味は概して、生々とした、病的感、癈頽《はいたい》した生きものの感じを持つ、或るものは癩《らい》病を思い出すように鼻などがなくつるりとしている。これは全くきみ悪い感じである。一つ目小僧などは正にその一つであろう。
[#挿絵(fig46521_04.png)入る]
また、のっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]、またはぞべら[#「ぞべら」に傍点]と呼ばれるところの妖怪がある。或る時は非常に美しい御姫様または奥女中風の後姿をしているが、それがふとふり向くと目も鼻も口も何もない、顔をしている。その風姿は必ずしもきまってはいないが、ともかくも顔の道具をすべて持たない妖怪であるが、これらも一種の奇形感、病気感、を持っている。きみの悪い味である。
外に、撞木《しゅもく》娘といって、美くしい町娘の風をしていて、顔が丁度、撞木の形、即ち丁字形であって、丁の横の棒の両端に目がついていて中央に赤い口を持ち鼻はない。撞木|鮫《ざめ》という魚に似ているがやはり色は真白できみが悪い、これらも同前の感じである。
ぞべらも、その撞木娘もともに多く美装した娘であるが、これがまたへんに凄い不思議な謎《なぞ》の味を持っていると思う。
狐にばかされるという事の合理的の解釈
附 狐附きの考
これは誰れでも考えついている事かもしれないが私が一通りすじ道を立て、自分でも合理な説明と思えるのでかく事にした。
狐にばかされるという事実は実際にある事であろう。しかし、それはそういう結果があるのでその元因は何も狐がそれを本当に行うのではない。
一口にいえばこれは自己催眠の民族的一殊異現象という事が出来る。
即ち、一時的に狂態を演ずるところの痴呆《ちほう》状態になる一種の病的現象というものは、狐が化かすという口碑伝説の伝《つたわ》らない以前の日本にも、また全然狐が化《ばか》すという事実を知らぬ外国にもある現象にちがいない。
この状態に入るのは一種の催眠状態から入るものらしく、余の知っている某老人の仕立職《したてしょく》が、余が幼時の家である銀座通りの店へ入ろうとして、店の前まで来てどうしても入る事が出来ず行き過ぎ引きかえしてまた入れず、かくする事四回にしてようやく気がついて、「狐につままれ」たといいつつ入って来た事を覚えているが、これらは全く一種の自己催眠で、どうしても入れぬという観念を何かによって自己自身で自己に与えたためにそうなったらしい。
ともかく催眠術をかけるのは催眠状態に入らしめて、後に暗示を与え、その暗示通りになるというのだそうだが、この狐に化されるのもそれに適合している。即ち化かされるものは、狐が化るという事をどこかで信じているか疑っていてももし本当なら恐《こわ》いという恐怖を割に持っているかどっちかの人であって、そういう人が山道とか、畑道とかを通る。かねがね物の本でみたり人に聞いたりした狐に化かされた人の話やその痴態やらを思い出す。あの田の中へ入っておお深い深いといっていたそうだなど思っているところへ、狐か、狐に似た犬か何かがスッと飛び出しでもすると、もう完全にその人は自己催眠に陥る、すると、かねて人に聞いたり、または画本などで見ていた、狐に化かされた男女のいろいろな狂態が頭に浮ぶ、常は忘れていたような事まで、無自覚の中に頭に浮んで来る。そこで、それを一つ一つ、自分で実行しなくてはならない命令を全く無意識の中に自己が自己にしている。この事の証拠は狐に化かされた人の化かされた時にする狂態が必ず、一致している。一つの法則を出ない、即ち、田を河の如くに渡るとか、糞尿《ふんにょう》のために入って風呂《ふろ》をつかうような事をするとか、馬糞を牡丹餅《ぼたもち》として食うとか、皆同一規である。これは自己の智識記憶がその暗示となって、それをしなくてはならなくなってしまうからの事である。
其処《そこ》に折よく第三者が来て、「彼奴《あいつ》は狐に化かされている」といって、背中をどやしてくれると即ち催眠状態が醒《さ》めるのである。
狐つきはやはり一種の一時的狂気であるが、狐に化かされるのよりは永続的で、また催眠状態ではなく本当に気がちがうのである。
ただ普通の狂気と異《ちが》うのは、その人の狂気前に見聞き
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