他方にはまた必ず貧しき者があるということになる。たとえば久原《くはら》に比ぶれば渋沢《しぶさわ》は貧乏人であり、渋沢に比ぶれば河上《かわかみ》は貧乏人であるというの類である。しかし私が、欧米諸国にたくさんの貧乏人がいるというのは、かかる意味の貧乏人をさすのではない。
 貧乏人ということばはまた英国の pauper すなわち被救恤者《ひきゅうじゅつしゃ》という意味に解することもある。かつて阪谷《さかたに》博士は日本社会学院の大会において「貧乏ははたして根絶しうべきや」との講演を試み、これを肯定してその論を結ばれたが、博士のいうところの貧乏人とはただこの被救恤者をさすのであった。(大正五年発行『日本社会学院年報』第三年度号)。私はこれをかりに第二の意味の貧乏人と名づけておく。ひっきょう他の救助を受け人の慈善に依頼してその生活を維持しおる者の謂《いい》であるが、かかる意味の貧乏人は西洋諸国においてはその数もとより決して少なしとはせぬ。たとえば一八九一年イングランド(ウェールズを含む)の貧民にして公の救助を受けし者は、全人口千人につき平均五十四人、すなわち約十八人につき一人ずつの割合であり、六十五歳以上の老人にあっては、千人につき平均二百九十二人、すなわち約三人に一人ずつの割合であった。統計は古いけれども、これでその一斑はわかる。さればこの種の貧民に関する問題も、西洋諸国では古くからずいぶん重要な問題にはなっているが、しかしこれもまた私がここに問題とするところではない。
 私がここに、西洋諸国にはたくさんの貧乏人がいるというのは、経済学上特定の意味を有する貧乏人のことで、かりにこれを第三の意味の貧乏人といっておく。そうしてそれを説明するためには、私はまず経済学者のいうところの貧乏線*の何ものたるやを説かねばならぬ。
[#地から1字上げ](九月十二日)
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
* "Poverty line."
[#ここで字下げ終わり]

       一の二

 思うにわれわれ人間にとってたいせつなものはおよそ三ある。その一は肉体《ボディ》であり、その二は知能《マインド》であり、その三は霊魂《スピリット》である。しかして人間の理想的生活といえば、ひっきょうこれら三のものをば健全に維持し発育させて行くことにほかならぬ。たとえばからだはいかに丈夫でも、あたまが鈍くては困る。またからだもよし、あたまもよいが、人格がいかにも劣等だというのでも困る。されば肉体《ボディ》と知能《マインド》と霊魂《スピリット》、これら三のものの自然的発達をば維持して行くがため、言い換うれば人々の天分に応じてこれら三のものをばのびるところまでのびさして行くがため、必要なだけの物資を得ておらぬ者があれば、それらの者はすべてこれを貧乏人と称すべきである。しかし知能《マインド》とか霊魂《スピリット》とかいうものは、すべて無形のもので、からだのように物さしで長さを計ったり、衡《はかり》で目方を量ったりすることのできぬものであるから、実際に当たって貧民の調査などする場合には、便宜のため貧乏の標準を大いに下げて、ただ肉体のことのみを眼中に置き、この肉体の自然的発達を維持するに足るだけの物をかりにわれわれの生存に必要な物と見なし、それだけの物を持たぬ者を貧乏人として行くのであって、それが私のいう第三の意味の貧乏人である。
 さてこの肉体を維持するに最も必要なるものは食物であるが、これはもろもろの学者の精密な研究の結果によりて、西洋では大人《おとな》の男子で普通の労働をしている者は、まず一日三千五百カロリーの熱量を発するだけの食物を取ればよいということがわかっておる。有名なるローンツリー氏の貧民調査などはすなわちこれを標準としたものである。ここに一カロリーというは、水一キログラム(すなわち二百六十七匁)を摂氏の寒暖計にて一度だけ高むるに要する熱の分量である。けだしわれわれ人間のからだはたとえば蒸気機関のごときもので、食物という石炭を燃やさなければ、この機械は運転せぬのである。そこでそのからだという機械の運転に必要な食物の分量は、これを科学的に計算するに当たりては、米何合とか肉何斤とか言わずに、すべてカロリーという熱量の単位に直してしまうのである。
 しからば人間のからだを維持するにちょうど必要な熱の分量はこれをいかにして算出するかというに、これについてはいろいろの学者の種々なる研究があるが、試みにその一例を述ぶれば、監獄囚徒に毎日一定の労働をさせ、そうしてそれに一定の食物を与えて、その成績を見て行くのである。最初充分に食物を与えずにおくと、囚徒らは疲労を感じて眠《ねぶ》たがる。何か注文があるかと聞くと、ひもじいからもっと[#「もっと」に傍点]食べさしてほしいと言う。そうして体量を秤《はか》って行くとだんだんに減ずるのである。そこで次には食物の分量をずっと[#「ずっと」に傍点]ふやしてみる。そうすると体重はふえだす。何か注文があるかと聞くと、今度はもう少しうまい[#「うまい」に傍点]物を食べさせてほしいというようにぜいたくを言いだす。食物に対する欲求が分量から品質に変わって来る。英国のダンロップ博士がスコットランドの囚徒について試験したのはこの方法によったものであるが、この時の成績(一九〇〇年パリーに開催されたる第十三回万国医学大会において報告)によると、二個月間毎日三千五百カロリーの熱量を有する食物を与えておいた時には、普通の体重を有する囚徒のうち約八割二分の者は次第にその体重を減じて来たが、三千七百カロリーの熱量を有する食物を与えてみると、約七割六分の者は次第にその体重を増加するかまたは維持することができたという。すなわちこの時の試験によると、三千五百カロリーの熱量を有するだけの食物では少し不足だという事になるのだけれども、しかし試験に供せられた囚徒は日々石切りを仕事としている者で、相当激しい労働に従事していたわけなので、現にダンロップ博士自身も普通の人で軽易な仕事をしておる者には三千百カロリーの食物で充分だろうと言っているのである。そこでローンツリー氏の貧民調査などでは、前に述べたごとく三千五百カロリーをもって普通の労働に従事せる大人《おとな》の男子に必要な一日分の熱量と見なしたのである。[#地から1字上げ](九月十三日)

       一の三

 西洋と日本とにては気候風土も同じからず、また西洋人と日本人とにては人種体質も異なる次第なれば、一概には定めがたけれども、前回に述べしようの方法にて、西洋にては男子の大人《おとな》にて普通の労働に従事する者は、一日約三千五百カロリーの熱量を有する食物を摂取せば可なりということ、ほぼ学者間の定説である。よりてこれを大体の標準となし、女子ならばいかほど、子供ならばいかほどというように、性及び年齢に応じて、それぞれ必要な食物の分量を決めて行くのである。
 ちなみにいう、先の大統領タフト氏を総裁とせる米国生命延長協会の校定に成れる『いかに生活すべきか*』を見るに、一日一人の所要熱量をば約二千五百カロリーとしてある。すなわちこれに比ぶれば、前に述べたるローンツリー氏らの標準ははなはだ過大に失せるがごとく見ゆるも、かかる差異は、食物と労働との関係を計算に入るると否とによりて生ずるのである。現に『いかに生活すべきか』には「普通の座業者は一日約二千五百カロリーを要する、しかしからだが大きくなればなるほど、また肉体的労働に従事すればするほど、ますます多くの食物を要する」と断わってある。しかるに貧乏人は、いずれの国においても最も多くの肉体的労働に従事しつつあるものである。これ貧乏線測定の標準とすべき所要食料の分量が、普通人のために設けられたる標準とやや相違するところあるゆえんである。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
* How to Live, 1916. p. 30.
[#ここで字下げ終わり]
 思うに所要熱量が労働の多少に大関係を有することは論をまたぬが、試みにその程度を示さんがために、私は左に一表を掲げる。これはフィンランドの大学教授ベケル及びハマライネンの二氏が、個々の労働者につきその実際に消費するところの熱量を測定したものである。
[#ここから2字下げ]
 職業         年齢 身長(フィート―インチ) 体重(ポンド) 休業中一時間内の消費熱量 労働中一時間内の消費熱量 一日間の消費総熱量(八時間労働、十六時間休養)
製靴業《せいかぎょう》 五六    五―〇        一四五         七三          一七二               二五四四          
同           三〇    五―八        一四三         八七          一七一               二七六〇          
裁縫師         三九    五―五        一四一         七二          一二四               二一四四          
同           四六    五―一〇・五     一六一        一〇二          一三五               二七一二          
製本業         一九    六―〇        一五〇         八七          一六四               二七〇四          
同           二三    五―四・五      一四三         八五          一六三               二六六四          
金属工         三四    五―四        一三九         八一          二一六               三〇二四          
同           二七    五―五        一三〇         九九          二一九               三三三六          
ペンキ塗り       二五    五―一一       一五四        一〇四          二三一               三五一二          
同           二七    五―八        一四七        一一一          二三〇               三六一六          
指物師《さしものし》  四二    五―七        一五四         八一          二〇四               二九二八          
同           二四    五―五・五      一四一         八五          二四四               三三一二          
石工          二七    五―一一       一五六         九〇          四〇八               四七〇四          
同           二二    五―八        一四一         八五          三六六               四二八八          
木挽《こびき》     四二    五―五        一六七         八六          五〇一               五三八四          
同           四三    五―五        一四三         八四          四五一               四九五二          
[#ここから3字下げ]
(右『いかに生活すべきか』一九五ページに引くところを抄録す*)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
* 〔Skandi
前へ 次へ
全24ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング