かならぬのである。[#地から1字上げ](十月十四日)
六の一
人間がほかの動物と比較すべからざる経済的発達を遂ぐるに至りし根本原因が、はたして私の言うがごとく、道具の発明にありとするならば、近代に至りその道具がさらに一段の発展を遂げて機械となるに至りしことは、実に経済史上の一大事件といわねばならぬ。もしそれ機械の力の驚くべきものなる事は、今さら私の説明をまたざるところである。試みに尋常小学読本巻の十一を見るにいわく「昔の糸車にて紡《つむ》ぐ時は、一本の錘《つむ》に一人を要すべきに、今はわずかに六七人の工女にてよく二千本の錘を扱うを得《う》べし。加うるにかの蝋燭《ろうそく》の心《しん》とする太き糸、蜘蛛《くも》の糸のごとき細き糸、細大意のままにして、手紡ぎのごとく不ぞろいとなることなし。機械の力は驚くべきものにあらずや」と。しかも今日西洋において最も進歩せる機械にあっては、一人の職工よく一万二千錘を運転しうるという。さればこれを紡績の一例について見るも、機械の発明のためにわれわれの生産力は一躍して千倍万倍に増進したわけである。
機械の効果の偉大なることかくのごとし。思うにわれわれは、その昔かつて道具の発明により始めて禽獣《きんじゅう》の域を脱し得たりしがごとく、今や機械の発明によって、旧時代の人類の全く夢想だもし得ざりし驚くべき物質的文明をまさに成就せんとしつつある。しかして私は、このまさに成就されんとする新文明のたまものの一として、貧乏人の絶無なる新社会の実現を日々に想望しつつある者である。
私は遠くさかのぼりて道具の人類進化史上における地位を稽《かんが》え、転じて近代における機械の偉大なる効果を思うごとに、今の時代をもって真に未曾有《みぞう》難遭《なんそう》の時代なりとなすを禁じ得ず。されば一昨昨年(一九一三年)の末始めてロンドンに着き、取りあえず有名なウェストミンスター寺院《アベー》を訪問して、はからずもゼームス・ワットの大理石像を仰ぎ見たる時なども、私は実に言うべからざる感慨にふけった者である。仰ぎ見れば、彼ワットはガウンを着て椅子《いす》に腰を掛け、大きな靴《くつ》をはいて、左の足を後ろに引き、右の足を前に出し、紙をひざにのべ、左手《ゆんで》にその端をおさえ、右手《めて》にはコンパスを握っている。そうして台石の表面には、次のような文字が彫り付けてある。
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「この国の国王、諸大臣、ならびに貴族平民の多くの者どもが、この記念像をゼームス・ワットのために建てた。そは彼の名を永遠に伝えんとてにあらず、彼の名は平和の事業にして栄ゆる限り、かかる記念像をまたずして必ずや永遠に伝わるべきものである。むしろこの像は人間が……彼らの最上の感謝に値するところの人々を尊敬することをわきまえているという証拠を示すためにのみ、ただ建てられたものである。」
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彼ワットとは言うまでもなく蒸気機関の発明者である。しかしてこの蒸気機関の発明者こそ機械時代の先駆者の一人であってみれば、彼の名は実に人間にして滅びざる限り永遠に伝わるべきものである。
ウェストミンスター寺院《アベー》には、ダーウィンがいる、ニュートンがいる、セークスピアがいる、そうしてまたこのワットがいるのである。寺院《アベー》のすぐ前は、ロンドンで最もにぎやかな場所の一つたるトラファルガル・スケアであって、そこには空にそびゆる高い高い柱の頂上に、ネルソン将軍が突き立っている。昔トラファルガルの海戦でスペイン、フランスの連合艦隊を一挙にしてほとんど全滅させ、自分もその場で戦いに倒れた英国海軍の軍神ネルソン卿《きょう》の銅像が、灰色の空に突き立って下界を見おろしているのである。そのネルソン卿の見おろしている下の広場は、自動車や人間の往来に目もくらむばかりであって、道一ツ横切るにも私たちのようないなか者はいつもひやひやしたものである。カフェーにはいると、地下室になっている。そこへ腰を掛けて茶を飲んでいると、天井の明かり取りのガラス板の上をおおぜいの人が靴《くつ》を踏み鳴らしながら通る。その騒々しさにはわれわれの神経もすり減らされるような気持ちであるが、さて戸を一つあけて寺院の内にはいると、たとえば浅草《あさくさ》の公園でパノラマ館にはいったよう、空気はたちまち一変して、外の騒々しさはすべて拭《ふ》いたように消されてしまって、寺院の内は靴音さえ慎まれるほどの静けさである。私はそういう空気の中で彼ワットの像を仰ぎ見ながら、低徊《ていかい》去るあたわず、静かにさまざまの感想にふけったものであるが、今またこの物語を草して機械のことに及ぶに当たり、ゆくりなくも当時を追懐して、ここに無用の閑話に貴重なる一日の紙面をふさぐに至りし次第で
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