ある。[#地から1字上げ](十月十五日)
六の二
私は先に機械のことを述べ、今日《こんにち》は機械の発明のために、仕事の種類によっては、われわれの生産力が数千倍数万倍に増加したことを説いた。しかるにもかかわらず、その機械の応用の最も盛んなる西洋の文明諸国において、――すでにこの物語の冒頭に述べしごとく、――貧乏人の数が非常に多いというのは、いかにも不思議の事である。富める家にはやせ犬なしとさえ言うものを、経済のはるかに進んでいる文明諸国のことなれば、金持ちに比べてこそ貧乏人といわれている者でも、必ずや相応の暮らしをしているに相違あるまいと思うのに、なかなかそうではなくて、肉体の健康を維持するに必要な所得さえ得あたわぬ貧乏人が非常に多いというのは、実に不思議千万なことである。
今私はこの不思議を解いてなんとかして貧乏根治の方策を立てたいと思うのであるが、この問題についてはすでに百年来有名なマルサス人口論というものがあるから、他の諸説はしばらくおくとするも、議論の順序として、まずこの人口論だけは片付けておかねばならぬ。
『人口論』の著者として有名なるマルサスは今から百五十年前英国に生まれた人で、その著『人口論』の第一版は、今から約百二十年前一七九八年に匿名にて公にされたものである。氏の議論はその後『人口論』の版を改むるに従うて少なからず変化されておるから、簡単にその要領を述ぶることは不可能であるが、ここには便宜のためにしばらく初版につきその議論の大意を述べる。氏の意見によれば、色食の二者は人間の二大情欲である。しかしてわれわれ人間は、色欲を満足することによりてその子孫を繁殖し、食物を摂取することによりてその生命を維持しつつあるが、今その生活に必要なる食物の生産増加率は、到底人口の繁殖率に及ばざるものである。されば人間という動物があくまでも盛んに子を産み、しかもその人間を育てるにはどうしても食物が必要だという以上、さまざまの罪悪や、貧乏のために難儀するのは、われわれの力でいかんともすることのできぬ人間生まれながらの宿命だというのである。
さてこの人口論がもし真理であるならば、貧乏根治を志願の一としてこの世に存命《ながら》えおるこの物語の著者のごときは、書を焼き筆を折って志を当世に絶つのほかはないが、幸いにして私の見るところはマルサスとやや異なるところがある。けだしマルサスの議論は、かりに人間全体が貧乏しなければならぬという事の説明となるとしても、かの同じ人間の仲間にあって、ある者は方丈《ほうじょう》の食饌《しょくせん》をつらね得、ある者は粗茶淡飯にも飽くことあたわざるの現象に至っては、全くこれを説明し得ざるものである。いわんや最近百余年の間において、機械の発明は各方面に行なわれ、その著しきものにあっては、ために財貨生産の力を増加せしこと、実に数千倍数万倍に達しつつある。いかに人口の繁殖力が強ければとて、到底この機械の発明にもとづく生産力の増加に匹敵すべくもない。されば百数十年前人口論の初めて世に公にされし当時ならばともかく、二十世紀の今日にあっては、財貨の生産力が人口の繁殖力に及ぶことあたわざるをもって、貧乏の根源となさんとするがごときは、当たらざるもまた遠しと言わなければならぬ。しからばなんのためにかの多数の貧民はあるか。請う回を改めて余が見るところを述べしめよ。[#地から1字上げ](十月十六日)
七の一
道具の発明によって禽獣《きんじゅう》の域を脱し得た人間が、機械の発明された今日、なお貧苦困窮より脱しあたわぬというは、一応は不思議な事である。しかしよく考えてみると、不思議でもなんでもなく、実は有力な機械というものはできたけれども、その機械の生産力が今日では全くおさえられてしまって、充分にその力を働かせずにいるのである。物を造り出す力そのものは非常にふえているけれども、その力がおさえられて充分に働きを現わさずにいるから、それでせっかく機械の発明された世の中でありながら、われわれ一般の者の日常の生活に必要ないわゆる生活必要品なるものの生産が、著しく不足しているのである。これをたとうれば、立派なストーブを据え付けながら、炭を吝《おし》んで行火火《あんかび》ほどのものを入れ、おおぜいの人がこれを囲んで、冬の日寒さに震えつつあるがごときものである。
あるいはこの点を誤解して、今日は機械ができたためにわれわれの生活に必要な品物はすでに豊富に造り出されているけれども、その分配が悪いために、ある少数の人の手に余分に分捕《ぶんど》られ、それがために残りの多数の人々は食うものも食わずに困っているのである、というふうに考えている者もあろうが、それは大きな間違いである。
たとえば今日の日本にでも充分に食
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