l心に及ぼす影響の甚大《じんだい》なるものなることを認めつつある者の一人で、その点においては私は十九世紀の最大思想家の一人たるカール・マルクスに負うところが少なくない。
今私はここにマルクスの伝記をくわしくお話しする余裕ももたなければ、またその必要も感じない。しかしいつ読んでもおもしろいのは豪傑の伝記である。すなわちもし諸君が許さるるならば、私はマルクス伝の一|鱗《りん》を示すがために、ここにマルクスの細君の手紙の一節を抄訳しようと思う。
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「……嬰児《みずご》のために乳母《うば》を雇うというがごときはもちろんできがたきことにて候《そうろう》ゆえ、わたしは胸や背《せな》の絶えず恐るべき痛みを感ずるにかかわらず、自身の乳にて子供を育てることに決心いたし候。しかるに哀れむべき小さなる天使は、不良の乳を飲み過ぎ候いしために、生まれ落ちたる日より病気にかかり、夜も昼も苦しみおり候。彼はかつて一夜たりとも二三時間以上眠りたることこれなく候。……かかるところへ、ある日のこと、突然家主参り……屋賃の滞り五ポンドを請求いたし候いしも、われらはもとよりこれを支払うの力これなく候いしかば、直ちに二人《ふたり》の執達吏入りきたり、わずかばかりの所有品は、ベッドも、シャツも、着物もすべて差し押え、なお嬰児《みずご》の揺床《ゆりどこ》も、泣き悲しみつつそばに立ちいたる二人の娘のおもちゃも、すべて差し押えたることに御座候《ござそうろう》。」
[#ここで字下げ終わり]
これはマルクスの細君が一八四九年にある人に与えた手紙の一節であるが、ここにマルクスの細君というは、マルクスの父の親友なるルードウィヒ・フォン・ウェストファーレンという人の娘である。当時その人がプロシャの官吏としてザルツウェーデルという所からマルクスの郷里のトリエルに転じて来たのは、今からちょうど百年前の一八一六年のことであるが、その時に連れていた二歳になる女の子は、後にマルクスの細君となった人で、すなわち先に掲げた手紙の主である。この手紙の主は幼にして容色人にすぐれ、かつ富裕なる名家に人となりしがために、名門の子弟の婚を求むる者も少なくなかったのであるが、たまたまマルクスのせつなる望みにより、四歳年下のこの貧乏人の子にとつぎ、かくてこの女は、かの恐るべき社会主義者として早くより自分の祖国を追い出され、またフランスからもベルギーからも追放されて、ついには英京ロンドンに客死するに至りしところの、世界の浪人にしてかつ世界の学者たるカール・マルクスにその一生をささげ、つぶさに辛酸をなめ尽くしつつ、終始最も善良なる妻として、その遠き祖先の骨を埋めつつある英国に流れ渡り、ついに自身もロンドンの客舎に病死するに至りし人である。前に掲げた手紙もすなわちこのロンドン客寓中《かくぐうちゅう》にしたためたものである。[#地から1字上げ](十二月九日)
十一の二
さて私がここにマルクスを持ち出したのは、彼が有名なる唯物史観または経済的社会観という一学説の創設者であるからである。
彼が一八五九年に公にしたる『経済学批判*』の巻頭には同年二月の日付ある彼の序文があるが、その一節には次のごとく述べてある。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
* Karl Marx, Zur Kritik der politischen Oekonomie.
[#ここで字下げ終わり]
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「余はギゾーのためフランスより追われたるにより、パリーにて始めたる経済上の研究はこれをブリュッセルにおいて継続した。しかして研究の結果、余の到達したる一般的結論にして、すでにこれを得たる後は、常に余が研究の指南車となりしところのものを簡単に言い表わさば次のごとくである。」
「人類はその生活資料の社会的生産のために、一定の、必然的の、彼らの意志より独立したる関係、すなわち彼らの物質的生産力の一定の発展の階段に適応するところの生産関係に入り込むものである。これら生産関係の総和は社会の経済的構造を成すものなるが、これすなわち社会の真実の基礎にして、その基礎の上に法律上及び政治上の上建築が建立され、また社会意識の形態もこれに適応するものである。すなわち物質的生活上の生産方法なるものは、社会的、政治的及び精神的の生活経過をばすべて決定するものである。」
[#ここで字下げ終わり]
右はマルクスの※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]牙《ごうが》な文章を――しかもわずかにその一節を――直訳したのであるから、これを一読しただけでは充分に彼の意見を了解することは困難であるが、今これを詳しく解説しているいとまはない。それゆえ、しばらくその原文を離れて、簡単に彼の意見の要領を述ぶるならば、これを
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