竦ァ度を変えたらよいと言ったところが、それだけの仕事を負担する豪傑が出て来なければだめだからである。しかるに「茫々《ぼうぼう》たる宇宙人無数なれども、那個《なこ》の男児かこれ丈夫」で、天下の大事を負担する豪傑はそう容易に得らるるものでない。また幸いにしてそういう豪傑が出て来て、制度やしくみを変えようと試みたとしても、まず社会を組織せる一般の人々の思想、精神が変わって来ていなければ、ことに今日のごとき輿論《よろん》政治の時代においては、容易にその制度なりしくみなりが変えられるものではない。またたとい時の勢いをもってしいて制度やしくみを変えてみたところが、その制度しくみを運用すべき人間そのもの、国家社会を組織している個人そのものが変わって来ぬ以上、根本的の改革はできるものではない。これをたとうれば、社会組織の善悪は寿司《すし》の押し方に巧拙あるがごときものである。押し方が足りなければ米粒はバラバラになって最初から寿司にならぬが、しかしあまり強く押し過ぎても寿司は固まって餅《もち》になってしまう。しかしいくらじょうずな押し方をしても、材料がまずくてはやはりうまい寿司はできぬ。そこで押し方のくふうも無論肝要だが、それと同時にこれが材料に注意して、米だの肴《さかな》だの椎茸《しいたけ》だの玉子焼きだの酢や砂糖などをそれぞれ精選しなければならぬ。私はこの意味において、政治家の仕事よりも広い意味の教育家の仕事をば、組織の改良よりも個人の改善をば、事の本質上、より根本的だと考える者である。
[#地から1字上げ](十二月五日)

       十の四

 話を少し他に転ずるが、一八八九年ロンドン船渠《ドック》の労働者が同盟|罷業《ひぎょう》をして世間を騒がしたことがある。ところが元来これらの労働者はすべて烏合《うごう》の衆で、なんら有力な労働組合を組織していなかったものである。さればせっかく同盟罷業は企てたものの彼らはたちまち衣食に窮してじきに復業するだろうとは、当初世人一般の予想であった。しかるにその時思いがけものう、はるかに海を隔てた豪州から電報で参拾万円を送った者があって、そのおかげで労働者はついに勝利を制した事がある。
 豪州の社会党がなんら利害の関係を有せざるロンドン船渠《ドック》の労働者に向かって参拾万円を寄贈したというこの一事件は、豪州社会党及びその背後における一人物ウィリアム・レーンなるものの広く世間の注意をひくに至った最初であるが、そのレーンなるものはその後進んで南米の一角にその理想とせる社会主義国を実現せんと企てしことによりて、さらに有名になった人である。
 試みに一八九〇年彼がその計画を実行せんとするに当たり公にせし宣言書を見るに、その要旨は次のごとくである。
[#ここから1字下げ]
「働くためにある者は他人に雇われなければならぬというしくみが維持せらるる限り、またわれわれが、生活の不安のために誘発せらるる利己心の妨げによりて、われわれの生活を相互に保証するのしくみを採るはすべての人にとって最善の方法たることを理解するに至り得ざる限り、真の自由と幸福は到底望まるべくもない。(中略)それゆえ今日の急務は、すべての者が共同の利益のために働くという一の社会を創設し、これによりて、ある人が他人を虐待することの絶対に不可能なる条件の下においては、そうしてまた、全体の者の福祉を図ることが各個人の第一の義務であり、また各個人の福祉を図ることが全体の者の唯一の義務であるという主義の下においては、すべての男女が、だれの身にとっても自分自身または自分の子孫があすにも餓死せぬとも限らぬという今日のごとき社会において到底味わうことのできぬ愉快、幸福、知恵及び秩序の中に、生活しうるという実際の証明を与うることである。」
[#ここで字下げ終わり]
 レーン氏はかくのごとき宣言を公にしたる後、南船北馬、東奔|西馳《せいち》、熱心にその計画の有益かつ必要なることを伝道したるところ、志を同じゅうする者少なからざるの勢いなりしをもって、すなわち人を欧米に派遣して理想国建設の地を卜せしめ、ついに南米のパラグェーをもってその地と定めその理想郷は名づけてこれを『新豪州』といいかつ加盟の条件を左のごとく定めた。
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「この組合に加入せんとする者は、目的地に向かって出発する時最後に所有しいたる全財産をこの組合に提供すべし。ただしその出資は六百円以上なることを要す。この出資は後日組合を脱退せんとする者あるも、全くこれを返戻《へんれい》せず。また五十歳以上の者は、その出資額千円以上に達するにあらざれば、その加盟を許さずうんぬん。」
[#ここで字下げ終わり]
 さて規約を右のごとく定めてこれを世間に公にしてみると、加盟者ははたして続々と現われて来て、中に
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