ゆえあなたの靴業に関する議論を読むと、すぐにまた当時の事を思い起こして、ここにこの手紙をあなたにさしあげる次第です*……。」
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* Chioza−Money, Rich and Poor, p. 133.
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 これは一人の職工の短い手紙ではあるけれども、これを読むと、私は大家の筆に成った長編の社会劇を読んだ時と同じ印象を得《う》るような気持ちがするのである。
 今日ダイヤモンドの世界産額のうち九割五分だけのものは南アフリカのキンバーレーという所の鉱山より産出されつつあるが、そこの鉱脈はすこぶる豊富で、掘り出せばまだいくらでも生産されるのであるが、しかしそうたくさんに売り出しては価格が下落してかえって利潤の総額が減るから、そこの鉱山会社ではわざとその産額を制限しているのである。南アのダイヤモンド生産は一会社の独占に帰していて、その生産制限が特に目立って行なわれているがために、今日は世界周知の事実となっておるが、もしもわれわれが、一段の高処に立って天下を大観したならば、これと同じようなる生産制限は、世界経済界の至る所に、各種の事業を通じて、あまねく行なわれつつあるを看取するに難からぬであろう。これ有力なる機械の発明されたる今日、貧乏に苦しむ者のなお四方にあまねきゆえんである。[#地から1字上げ](十月十九日)

       七の四

 私は前回に縁の遠い英国の靴《くつ》製造業の事など持ち出して、しばらく問題を当面の日本から遠ざけておいたが、実は手近な所にも、同じように明瞭な実例がたくさんある。たとえば近ごろわが国に行なわれた米価調節なるものがそれである。米がたくさんできるということは実によろこばしい事で、現にこれがためには全国各府県に農事試験場などを設けてしきりにその生産増加を奨励しているのである。しかるにたくさんできると値段が安くなる。しかも安くなっては農家のもうけが減るというので、政府はいろいろに骨を折って、今度は米価をつり上げるくふうをしている。一方には日々の米代の支払いにも困っている者がたくさんある。腹一杯米の飯をよう食わぬ者もおおぜいいる。それに政府は、米の値段を高くするために、委員会などを設け、天下の学者実業家を寄せ集めて、いろいろと骨を折らねばならぬというのであるから、実に矛盾した話であるが、しかしこの一例によってみても、今日の経済組織の欠陥の那辺《なへん》にあるかはよくわかる。
 世間社会問題を論ずる者、往々にして浅近の所に着眼し、貧乏を根治するの策は、一に貧民の所得を増加するにあるがごとく思惟す。さりながらいかに彼らの所得を増加したりとて、他方において富者の富がさらにいっそうの速度をもって増加する以上、貧富の懸隔はますますはなはだしきを加え、従うて天下の生産力が奢侈《しゃし》ぜいたく品の産出に吸収さるるの弊は、あえてこれがために匡正《きょうせい》さるることなく、その結果たとい貧乏人の貨幣所得は多少ずつ増加することありとも、生活必要品の価格はさらにそれ以上の速度をもって騰貴し、これがため彼らの生活はかえって苦しくなるばかりであろう。
 これを要するに、今日生活の必要品が充分に生産されて来ぬのは、天下の生産力が奢侈ぜいたく品の産出のために奪い去られつつあるがためである。多数貧民の需要に供すべき生活の必要品は、少し余分に造ると、じきに相場が下がってもうけが減るから、事業家はわざとその生産力をおさえているのである。しかして余の見るところによれば、これが今日文明諸国において多数の人々の貧乏に苦しみつつある経済組織上の主要原因である。
 さてかくのごとく論じきたる時は、私の議論はいつのまにか循環したようである。なぜというに、私は最初、今日なぜ貧乏人が多いかといえばそれは生活必要品の生産額が足らぬからだと言った。しかるにさらに進んで、なぜ生活必要品の生産額が充分にならぬかと尋ねられると、それはほしいと思っている人はたくさんあっても、その人たちが充分な資力をもっておらぬからだと答えた。ところが充分に資力をもっておらぬ者はすなわち貧乏人であるから、つまり私の説によると、生活必要品の生産額が不充分なのは社会に貧乏人が多いからだということになる。すなわちなぜ貧乏人が多いかといえば生活必要品の生産が足らぬのだと言い、なぜ生活必要品の生産が足らぬかと言えば貧乏人が多いからだと言っているので、なんだか私は手品を使って、この最難関をごまかしながら抜け出たように見える。しかしこれは私の議論が循環しているのではなくて、実際の事実が循環しているのである。いずれその事は後に至ってさらに詳論するつもりであるが、ともかく以上述ぶる所によって考うれば、貧乏問題は一
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