見すれば分配論に局限されたる問題のごとくにして、実は生産問題と密接なる関係を有するものなる事を看取するに足るであろう。思うに世上社会問題を論ずるもの往々これをもって単純に富の分配に関する問題となし、その深く現時の生産組織と連絡するところあるを看過する者すこぶる多し。これ余が特に如上の点を力説して、しかる後問題の解決に進まんとせしゆえんである。[#地から1字上げ](十月二十日)
八の一
今や天高く秋深くまさに読書の好時節なりといえども、著者近来しきりに疲労を覚え、すこぶる筆硯《ひっけん》にものうし。すなわちこの物語のごときも、中絶することすでに二三週、今ようやく再び筆を執るといえども、駑馬《どば》に鞭《むちう》ちて峻坂《しゅんぱん》を登るがごとし。
それ貧乏は社会の大病である。これを根治せんと欲すれば、まず深くその病源を探ることを要す。これ余が特に中編を設け、もっぱらこの問題の攻究にあてんと擬せしゆえんである。しかもわずかに粗枝大葉の論を終えたるにとどまり、説のいまだ尽くさざるものなお多けれども、駄目《だめ》を推さばひっきょう限りなからん。すなわち余はしばらく以上をもって中編を結び、これより直ちに下編に入らんとす。下編はすなわち貧乏退治の根本策を論ずるをもって主題となすもの、おのずからこの物語の眼目である。
今論を進めんがため、重ねて中編における所論の要旨を約言せんか、すなわちこれを左の数言に摂することを得《う》。いわく、
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(一) 現時の経済組織にして維持せらるる限り、
(二) また社会にはなはだしき貧富の懸隔を存する限り、
(三) しかしてまた、富者がその余裕あるに任せて、みだりに各種の奢侈《しゃし》ぜいたく品を購買し需要する限り、
[#ここで字下げ終わり]
貧乏を根絶することは到底望みがない。
今日の社会に貧乏を絶たざるの理由すでにかくのごとし。されど吾人《ごじん》にしてもしこの社会より貧乏を根絶せんと要するならば、これら三個の条件にかんがみてその方策を樹《た》つるのほかはない。
第一に、世の富者がもし自ら進んでいっさいの奢侈《しゃし》ぜいたくを廃止するに至るならば、貧乏存在の三条件のうちその一を欠くに至るべきがゆえに、それはたしかに貧乏退治の一策である。
第二に、なんらかの方法をもって貧富の懸隔のはなはだしきを匡正《きょうせい》し、社会一般人の所得をして著しき等差なからしむることを得《う》るならば、これまた貧乏存在の一条件を絶つゆえんなるがゆえに、それも貧乏退治の一策となしうる。
第三に、今日のごとく各種の生産事業を私人の金もうけ仕事に一任しおくことなく、たとえば軍備または教育のごとく、国家自らこれを担当するに至るならば、現時の経済組織はこれがため著しく改造せらるるわけであるが、これもまた貧乏存在の一条件をなくするゆえんであって、貧乏退治の一策としておのずから人の考え至るところである。
さてわれわれが今、当面の問題をば単に机上の空論として取り扱うつもりならば、われわれは理論上以上の三策に対してほぼ同一の価値を下しうる。しかしながら、採ってもって直ちにこれを当世に行なわしめんとするにあるならば、おのずから別に周密なる思慮を加うるを要する。
たとえば、難治の大病にかかって長く病院にはいっていた者が、近ごろ次第に快方に向かったというので、退院を許され、汽車に乗って帰郷の途についたとする。しかるに不運にも汽車が途中で顛覆《てんぷく》してその人もこれがために重傷を負うて死んだとする。今この一例について考うるに、もし汽車が顛覆しなかったならば、この人はたしかに死ななかったはずである。しかしたとい汽車は顛覆しても、もしその病気が快方に向かわなかったならば、この人は退院も許されず、従って帰郷の途につくはずもなかったのであるから、やはり死を免れたはずである。すなわちこの人の死を救わんとすれば、われわれはこれら二条件のいずれか一をなくすればよいのであるが、しかし汽車をして顛覆せしめざるの方策を講ずるのはさしつかえないけれども、その人の病気をして快方に向かわしめざるの方策を講ずるというは間違いである。もし引き続きさような事をしたならば、その人は汽車でけがをして死ぬることこそなくとも、ついには病院の床の上で医者に脈をとられつつ死ななければならぬのである。思うに以上述べたる貧乏根治策のうち、あるいはこれに類するものなきやいかん。けだし上記三策の是非得失ならびにその相互の間における関係連絡に至っては、おのずからさらに慎重なる考慮を要すべきものならん。請う余をして静かにその所思の一端を伸べしめよ。[#地から1字上げ](十一月十一日)
八の二
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