もっと米を作ってくれと言ったところで、そう安く売っては割りに合わぬから、だれも相手にする者はない。そこへ金持ちが出て来て、世の中にはずいぶん貧乏人がいて、米の飯さえ腹一杯よう食わぬ人間がいるということだが、さてさて情けないやつらである。おれなぞははばかりながら世間月並みのお料理にも食い飽きた。心の傷《いた》める人の前にて歌を歌うことなかれという事もあるが、それはどうでもよいとして、きょうは何か一つごくごく珍しいものを食べてみたい。しかし一人で食べてはおもしろうない、おおぜいの客を招き、山海の珍味を並べて皆を驚倒さしてやろう、などと思い立ったとすると、彼はさっそく料理人を呼ぶ。そうして、金はいくらでも出すから思い切って一つ珍しい料理をしてみてくれ、まず吸い物から吟味してかかりたいが、それはほととぎすの舌の澄汁《すまし》とするかなどと命じたならば、さっそくおおぜいの人がほととぎすを捕りに山にはいるというような事になって、それだけたとえば米を作るなら、米を作る人の数が減ることになる。すでに米を作る人が減って来れば、それに応じて米の生産高は減じ、従うて米の値も高くなるであろうが、いくら米価は騰貴しても金持ちにはいっこうさしつかえはない。ただ困るのは貧乏人で、わずかばかりの収入では家族一同が米の飯を腹一杯食うことさえできぬというふうにだんだんなって来るのである。
[#地から1字上げ](十月十八日)

       七の三

 以上はただ話をわかりやすく言っただけのもので、実際の社会はきわめて複雑であるけれども、要するに今日の経済組織の下においては、物を造り出すということが私人の金もうけ仕事に一任してあるから、そこで金を出す人さえあれば、どんな無用なまた有害な奢侈《しゃし》ぜいたく品でもどしどし製造されると同時に、もし充分に金を出して買いうる人がおおぜいおらぬ以上、いかに国民の全体または大多数にとってきわめてたいせつな品物であっても、それが遺憾なく生産されるというわけには決してゆかぬのである。
 たとえばこれを英国における靴《くつ》の製造業について見るも、無論立派な機械がだんだん発明されて来ているから、その生産力は非常にふえている。しかしそれならば靴の製造高は昔に比べて非常に増加したかというに、決してそうではない。これはなぜかといえば、いくら金持ちだからといって、靴のごときものをそうたくさん買い込むものではない。もっともそのほかにたくさん貧乏人がいて、これらの貧乏人は皆靴がほしいほしいと言っているけれども、ほしいと言うばかりで、ろくに金を出す力がない。もし靴の値段をうんと下げたなら、これらの貧乏人もみんな買うであろうが、しかしそう値段を下げては割りに合わぬから、それで製造業者の力では最初からたくさんの靴は造らぬのである。かようなわけでせっかく機械が発明されても、そうたくさん機械が据《す》え付けらるるわけでもなく、また機械のため生産力そのものはにわかにふえて来ているのに、生産高はその割合にふやさぬということであるから、そこで職工は次第に解雇されて、失業者の群れに入ることになる。かくのごとくにしてせっかく発明された機械も充分に普及されず、立派な手を備えて働きたいと思っている者も口がなくて働けず、機械も人もともにその生産力をおさえられ、十二分の働きのできぬようにされているのである。
 こういったような議論をかつてチオザ・マネー氏がデーリー・ニュースという新聞紙に掲げたところが、氏は読者の一人から次のごとき手紙をもらったことがあるという。(同氏著『富と貧』一三三ページ)
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「あなたが月曜日及び火曜日の紙上で靴《くつ》の事についてお書きになったことは、私は全くほんとうだと思います。それについては私自身の経験があります。私は鉄道の一従業者で、引き続き奉職していて、ただ今は一週三十シリングずつもらっております。……しかし一九〇三年には私の労賃は二十五シリング六ペンスでした。そうしてその時から私は六人の子供をもっていますが、ちょうどそのおりの事です、私の家の隣に靴の製造及び修繕を業としておる者がいましたが、その人はそのころ業を失ってすでに数個月も遊んでいたのです。そのころ私の子供の靴は例のとおり修繕にやらなければならなくなっていましたが、金がないので修繕に出すことができません。それでしかたなしに自分でへたな細工をしておりますと、ある日のことです、ちょうど私は壁のこちら側で靴の修繕をやっていると、業を失った隣の人は壁の向こう側にいて、私がやむを得ずさせられている仕事を、自分にやらしてくれればよいのにという顔つきをしていました。私がその時の事情を考えた時に、私の心の中を通ったいろいろの感情は、私のいまだに忘れる事のできぬところです。それ
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