下で聞いていた乞食のせがれが、さてさてお侍だなんて平生大道狭しと威張っていくさるくせに商人ふぜいの者に両手をついてまであやまるとはなんとした情けない話であろう、いくら偉そうに威張っていたところで債鬼に責められてはあんなつらい思いもせなければならぬとすればつまらない、それを思うとわれわれの境界は実に結構なものだ、借金取りがやって来るでもなければ、泥棒《どろぼう》のつける心配もない、風が吹こうが雨が降ろうが屋根が漏る心配も壁がこわれる心配もない、飢えては一わんの麦飯に舌鼓をうち、渇しては一杯の泥水《どろみず》にも甘露の思いをなす、いわゆる
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一鉢千家[#(ノ)]飯 孤身送[#(ル)][#二]幾秋[#(ヲカ)][#一]  一鉢《いっぱつ》千家の飯、孤身幾秋をか送る
冬[#(ハ)]温[#(ナリ)]路傍[#(ノ)]草 夏[#(ハ)]涼[#(シ)]橋下[#(ノ)]流[#(レ)]  冬は温《あたた》かなり路傍の草、夏は涼し橋下の流れ
非[#(ズ)][#レ]色[#(ニ)]又非[#(ズ)][#レ]空[#(ニ)] 無[#(ク)][#レ]楽復無[#(シ)][#レ]憂  色《しき》に非ず又|空《くう》に非ず、楽無く復《また》憂《うれ》い無し
若[#(シ)]人問[#(ワバ)][#二]此[#(ノ)]六[#(ニ)][#一] 明月浮[#(ブ)][#二]水中[#(ニ)][#一]  若《も》し人此の六に問わば、明月水中に浮かぶ
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で、思えば自分らほどのんきな結構なものは世間にないとひとり言を言うて妙に達観していると、せがれのそばで半ば居眠《いねぶ》りをしていた親乞食がせがれがかように申しますのを聞いて、むっくと起き直り『これせがれ、そんな果報な安楽の身にいったいお前はだれにしてもろうたのか親様《おやさま》の御恩を忘れてはならんぞ』と言うたというお話がござります」
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「はたらけどはたらけどなおわが生活《くらし》楽にならざり、じっと手を見る」という連中が、この講話を聞いてはたして自分らほど果報な者は世にないと思うに至るであろうか、どうか。たとい彼ら自身はそう思うにしても、われわれははたして彼らを目して世に果報な人々とすべきであるか、どうか。それが私の問題とするところである。[#地から1字上げ](九月十九日)

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