ホ、私はそれを真にぜいたくだというのである。[#地から1字上げ](十二月十八日)
十二の四
私がぜいたくを排斥するのは以上のごとき趣意である。もしこれを誤解していっさい物質的生活の向上を否認するものとせらるるならば、著者のはなはだ迷惑するところである。たとえば食物にしても、壮年の労働者には一日約三千五百カロリーの営養価を有する食物を摂取することがその健康を維持するために必要だとするならば、そうして日本の労働者は現にそれだけの食物を摂取しておらぬとするならば、私は彼らの食物につきすみやかにその品質を改良しその分量を増加せんことを希望する者である。きのうまでまずい物を少しばかり食べていたものが、きょうからにわかにうまい物を腹一杯に食べることにしたからとて、もしその事が彼らの健康を維持し増進するに必要であれば、私は決してこれをぜいたくだといわぬのである。ただ古人も一日|為《な》さざれば一日食わずと言ったように、無益に天下の食物を消費することを名づけてぜいたくといい、いっさいを排斥せんとするのである。
私はこの趣意に従うて、たとえば自動車に乗るがごときことをも、これをぜいたくとして一概に排斥せんとするものではない。その人の職業ないし事業の性質によっては、終日東西に奔走するの必要あるものがあろう。その場合にもし自動車の利用が、その人の時間を節約し、天下のためにより多くの仕事をなしうるゆえんとなるのであれば、自動車に乗るもまた必要であってぜいたくではない。ただ私はなんらなすなき遊冶《ゆうや》郎輩《ろうはい》が、惜しくもない時間をつぶすがために、妓《ぎ》を擁して自動車を走らせ、みだりに散歩の詩人を驚かすがごときをもって、真に無用のぜいたくとなすのである。
またたとえば学校の講堂にしても、もし教育の効果をあぐるがために真に必要だというならば、ただ雨露をしのぐに足るばかりでなく、相応に広大な建物を造っていっこうさしつかえない事だと思う。簡易生活を尊べる禅僧輩が往々にして広壮なる仏殿を経営するがごときも、同じようなる趣旨にいずるものとせば、あえてとがむるに足らぬ事である。
元来われわれは全力をあげて世のために働くを理想とすべきである。さればこの五尺のからだにしても、実は自分の私有物ではない、天下の公器である。なるべくこれをたいせつにして長く役に立つようにすると
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