ゥら一定の限度があるということは、徳川時代の禁奢令《きんしゃれい》の効果を顧みてもわかることである。それゆえ私は制度の力に訴うるよりも、まずこれを個人の自制にまたんとするものである。縷々《るる》数十回、今に至るまでこの物語を続けて来たのも、実は世の富豪に訴えて、いくぶんなりともその自制を請わんと欲せしことが、著者の最初からの目的の一である。貧乏物語は貧乏人に読んでもらうよりも、実は金持ちに読んでもらいたいのであった。[#地から1字上げ](十二月十四日)

       十二の三

 さてここまで論じてきたならば、私はぜいたくと必要との区別につき誤解なきようにしておかねばならぬが、元来今日まで行なわれて来た奢侈《しゃし》またはぜいたくという観念には、私の賛成しかねるところがある。けだし従来の見解によれば、ぜいたくとしからざるものとの区別は、もっぱら各個人の所得の大小を標準としたものである。たとえば巨万の富を擁する者が一夕の宴会に数百円を投ずるがごときは、その人の財産、その人の地位から考えて相当のことであるから、その人たちにとっては決してぜいたくとは言われないが、しかし百姓が米の飯を食ったり肴《さかな》を食ったりするのは、その収入に比較して過分の出費であるから、その人たちにとってはたしかにぜいたくである、こういうふうに説明して来たのである。しかし私がここに必要といいぜいたくというは、かくのごとく個人の所得または財産を標準としたものではない。私はただその事が、人間としての理想的生活を営むがため必要なるや否やによって、これを区別せんとするものである。
 ただし何をもって人間としての理想的生活となすやについては、人の見るところ必ずしも同じくはあるまい。しかして今私は、自分の本職とする経済学の範囲外に横たわるこの問題につき、自分の一家見を主張してこれを読者にしうるつもりでは毛頭ないけれども、ただ議論を進むる便宜のためにしばらく卑懐を伸ぶることを許さるるならば、私はすなわち言う。人間としての理想的生活とは、これを分析して言わばわれわれが自分の肉体的生活、知能的生活《メンタルライフ》及び道徳的生活《モーラルライフ》の向上発展を計り――換言すれば、われわれ自身がその肉体、その知能《マインド》及びその霊魂《スピリット》の健康を維持しその発育を助長し――進んでは自分以外の他の人々の肉体的
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