コいたく品を需要しているからである。もしさし当たって事の表面を見るならば、商人がいろいろな奢侈ぜいたく品を作り出してこれを販売すればこそ買う人もあるというように考えられるけれども、それは本末転倒の見方なので、実は、そういう奢侈ぜいたく品をこしらえて売り出す人があるから買う人があるのではなく、そういう物をこしらえて売り出すと買う人があるから、それで商売人の方ではそういう品物を引き続きこしらえて売り出すのである。もちろん売ると買うとこの両者の間には互いに因果関係があるのであるから、生産者の責任のこともいずれのちに説くつもりであるが、しかしいずれが根本的かといえば、生産が元ではなくてむしろ需要が元である。もしだれも買い手がなかったならば、商人は売れもせぬ物を引き続きこしらえていたずらに損をするものではない。いくらでも売れるから、次第に勢いに乗じて、さまざまの奢侈ぜいたく品を作り出すのである。そこで田舎《いなか》にいて米を作るべき人も、都会に出て錦《にしき》を織るの人となる。農事の改良に費やさるべき資金も、地方を見捨てて都会にいで、待合の建築費などになる。かくて労力も資本も、その大半は奢侈ぜいたく品の製造のために奪い取られて、生活必要品の生産は不足することになるのである。[#地から1字上げ](十二月十三日)
十二の二
考えてみると、今日起こさなければならぬ仕事で、ただ資金がないために放棄されている仕事はたくさんにある。手近な例を取って言えば、農事の改良のためにも企つべき仕事はたくさんあるであろう。しかし資本がない、借ろうと思えば利子が高くてとても引き合わぬ。そういうことのためにいろいろな有益な事業が放棄されたままになっている。しかしながら、今日余裕のある人々が、奢侈《しゃし》ぜいたくのために投じている金額はたいしたものである。そうしてかりにそれらの人々が、もしいっさいの奢侈ぜいたくを廃止したとするならば、これまでそういう事に浪費されていた金は皆浮いて出て、それがことごとく資本になるのである。それからまた、そういう奢侈ぜいたく品を製造する事業のために吸収されていた資本も、皆浮いて来るのである。そうなって来れば、いくら資本の欠乏を訴えている日本でも、優に諸般の事業を経営するに足るだけの資本が出て来るはずである。私は、日本の経済を盛んにするの根本策は、機械の応
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