ョする。もとより穏健無難の方策であるが、しかもこれを徹底せしむるならば、多くは第三策に帰入するに至るもので、かのロイド・ジョージ氏の社会政策がしばしば社会主義なりと非難されたるも、社会政策の実施は多くは社会主義の一部的または漸進的実現と見なし得らるるがためである。

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 社会組織の改造よりも人心の改造がいっそう根本的の仕事であるとは、私のすでに幾度か述べたところである。思うにわれわれの今問題にしている貧乏の根絶というがごときことも、もし社会のすべての人々がその心がけを一変しうるならば、社会組織は全然今日のままにしておいても、問題はすぐにも解決されてしまうのである。
 その心がけとは、口で言えばきわめて簡単なことで、すなわちまずこれを消費者について言えば、各個人が無用のぜいたくをやめるという事ただそれだけの事である。私が先に、富者の奢侈《しゃし》廃止をもって貧乏退治の第一策としたのは、これがためである。
 思うにこのぜいたくということについては、今日一般に非常な誤解が行なわれているようである。たとえば巨万の富を擁する富豪翁が、自分の娘のために千金を投じて帯を買うというがごときは、無論|当然《とうぜん》のことと考えられているのであって、その事のために自分らは飢えている貧乏人の子供の口からその食物を奪っているなどいうことは、彼らの全く夢想だもせぬところであろう。おそらく彼らも普通人と等しく、また普通人以上に人情にあつい善人であろう。そうして自分の娘の衣装のために千金を費やすというがごときは、自分の身分に応じ無論当然のことで、自分らがそういう事に金を使えばこそ始めて世間の商人や職人に仕事もありもうけもあって、彼らはそのおかげでようやくその生計をささえつつある、というくらいに考えているのが普通であろう。しかしながらこれは全く誤解であるのである。そうしてこの誤解のためにどれだけ世間の貧乏人が迷惑しているかわからぬのである。
 なぜというに、今日一方にはいろいろなぜいたく品が盛んに作り出されているに、他方には生活必要品の生産高がはなはだしく不足していて、それがために多数の人間は肉体の健康を維持して行くだけの物さえ手に入れ難いということになっているのは、すでに中編にて述べたるごとく、ひっきょう余裕のある人々がいろいろな奢侈《しゃし》
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