柏lの貧困である。しかも今日の経済組織にして維持せらるる限り、しかして社会には依然として貧富の懸隔を存し、富者はただその余裕あるに任せて種々の奢侈《しゃし》ぜいたく品を需要し行く限り、到底この社会より貧乏を根絶するの望みなきがゆえに、ついに経済組織改造の論いずるに至る。詳しくいえば、貨物の生産をば私人の営利事業に一任しおくがごとき今日の組織を変更し、重要なる事業は大部分これを官業に移し、直接に国家の力をもってこれを経営し行くこと、たとえば今日の軍備のごとくまた教育のごとき制度となさんとするの主義すなわちこれにして、余は先の個人主義に対して、かりにこれを経済上の国家主義という。学問上よりいわば、国家は社会の一種に過ぎざれば、国家というよりも社会という方もとより意義広し。されば個人主義に対するものは、これを名づけて社会主義といいおきてさしつかえなき道理なれども、わが国にては、そが一種特別の危険思想を有する者によりて唱道されたるためにや、通例社会主義なる語には一種特別の意義が付せられ――西洋にてもまた同様の傾向あれども、概していえば今日この語の意義は全く確定せず、従って社会主義はほとんど何物《エブリー・シング》をも意味すとさえ称せられつつあるが――そは経済組織の基本として国家の存在を認めず、もっぱら労働者階級の利益を主眼として世界主義を奉じ、はなはだしきは無政府主義を奉ずるもののごとく思惟せられつつあるに似たるがゆえに、余はこれと混同せられんことをおそれ、特に社会主義なる語を避けて国家主義という。ひっきょう個人主義、民業主義に対する合同主義、官業主義をさすにほかならぬのである。余はこの点において読者が――数十万の読者がことごとく――なんらの誤解をされざらん事をせつに希望するものである。
 さて諸君がもし以上の説明をすなおに受け入れられるならば、私は進んで、次の一文を諸君に紹介する。
 ゼームス・ハルデーン・スミスという人が本年(一九一六年)公にしたる『|経済上の道徳《エコノミック・モラリズム》』と題する序言の付記。――
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「以上の序文を書いた後、事件の進行を見ていると、ヨーロッパの交戦国は次第にその産業をば広き範囲にわたって合同主義の上に組織することになった。ドイツの場合が特にそうである。現にドイツ筋から出た一記事には、『開戦以来ドイツの軍国主義は、
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