アれよりよろこぶべき事はないと考えたのである。しかして世間の事業家は、別に国家から命令し干渉することなくとも、ただ自己の利益を追求するがために、互いに競争してなるべく値段の高く売れる貨物を作り出すに決まっているから、もしわれわれが社会の経済的繁栄を計らんとするならば、すべてこれを私人の利己心の最も自由なる活動に一任しておくに限ると考えたのである。
 しかし、すでに中編にて説明したるがごとく、最も高く売れる物が生産されて行くという事は、ただ社会の需要が最もよく満足されて行くという事に過ぎない。しかるにいわゆる需要とは、購買力を伴うた要求ということである。ただ金持ちの要求というだけのものである。しからば単に需要によりてのみ一国の生産力を支配し行くことの不合理なるは言うまでもない。第一に、要求のあるに任せてこれを満たすということは、必ずしも社会公共の利益を計るゆえんではない。おおぜいの者の要求のなかには、これを満たすことが本人のためになんらの益なきのみならず、他人のためにも害を及ぼすものが少なくない。次に、各種の要求のうち、そのいずれを先にすべきやを定むるに当たっても、単に需要の強弱(すなわちその要求者の提供しうる金額の多少)をもってのみその標準となさんとするは、分配の制度にして理想的となりおらざる限り、決して理想的に社会の生産力を利用するゆえんの道ではない。
 以上述べたるところは、個人主義の理論上の欠点である。もしそれ、現代経済組織の下における利己心の束縛なき活動が、事実の上において悲しむべき不健全なる状態を醸成し、かくて一方には大厦《たいか》高楼《こうろう》にあって黄金の杯に葡萄《ぶどう》の美酒を盛る者あるに、他方には襤褸《らんる》をまとうて門前に食を乞《こ》う者あるがごとき、いやしくも皮下多少の血ある底《てい》の者が※[#「挈」の「手」に代えて「心」」、107−14]乎《かいこ》として見て過ぐるあたわざる幾多悲惨の現象をいかにわれらの眼前に展開しつつあるやの実状に至っては、余すでにこの物語の上編においてその一斑を述ぶ。請う読者自ら前後を較量して、今の世に経済組織改造の論のようやく勢いを得んとすることの決していわれなきにあらざるを察知されん事を。[#地から1字上げ](十二月一日)

       十の一

 現代経済組織の下において個人主義のもたらせし最大弊害は、多
前へ 次へ
全117ページ中69ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング