ーし一二の抄録によって、その個人主義のほぼいかなるものなるかを推知せらるるであろう。
思うに個人主義、放任主義の広く人心を支配すること久し。しかれども、今や『国富論』の公刊をさることまさに百四十年、たまたま世界|未曾有《みぞう》の大乱起これるを一期として、諸国の経済組織はまさにその面目を一変せんとしつつある。
これそもそも何がゆえぞ。吾人《ごじん》にしてもし個人主義の理論的欠陥を知るを得ば、おのずから時勢の変のもとづくところを知るを得ん。請う吾人をしてその一斑を説くところあらしめよ。
[#地から1字上げ](十一月三十日)
九の六
余ひそかに思うに、アダム・スミスの誤謬《ごびゅう》の第一は、氏自ら「経済学の大目的は一国の富及び力を増加するにあり」(『国富論』キャナン校訂本、巻一、三五一ページ)と言えるによっても明らかなるがごとく、もっぱら富の増加を計ることのみをもってすなわち経済の使命なりとなせし点である。けだし富なるものは元来人生の目的――人が真の人となること――を達するための一手段にほかならざるがゆえに、その必要とせらるる分量にはおのずから一定の限度あるものにて、決して無限にその増加を計るべきものではない。これと同時に、これを社会全体より見れば、富の生産が必要なると同じ程度において、その分配が当を得ていることが必要である。もしその分配にして当を得ず、ある者は過分に富を所有して必要以上にこれを浪費しつつあるにかかわらず、ある者ははなはだしくその必要を満たすあたわざるの状態にありとせば、たとい一国全体の富はいかに豊富に生産されつつあるも、もとより健全なる経済状態といい難きものである。しかも富の生産をばその分量及び種類に関しこれを必要なる程度範囲に限定し、かつその分配をして最も理想的(平等というと異なれり)ならしめんとするがごときことは、現時の経済組織をそのままに維持し、すべての産業を民業にゆだね、かつ各事業家をしてもっぱら自己の利益を追求するがままに放任しおきたるのみにては、到底その実現を期しうべきものではない。
アダム・スミスの誤謬《ごびゅう》の第二は、貨幣にて秤量《ひょうりょう》したる富の価値をば、直ちにその人生上の価値の標準としたことである。氏は一国内に生産せらるる貨物の代価を総計した金額が多くなりさえすれば、それが社会の繁栄であって、
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