ならぬのが、今の世の中である。先ほども私は、世界じゅうの人が集まって私を親切にしてくれるとお話ししたが、しかしそれは私が多少ずつなりとも月給をもろうて金を持っているからである。家賃を滞らせば、ただ今の親切な家主も、おそらく遠からず私を追い出すであろう。一文もなくなったら、私は妻子とともに、この広い世界に枕《まくら》を置くべき所も得られぬであろう。私の寝ているうちに、毎朝早くから一日も欠かさずに配達してくれた新聞屋も牛乳屋も、もし私が月末にその代価を払わなくなったら、とてもこれまでのように親切にしてくれぬであろう。げに金のある者にとっては、今の世の中ほど便利しごくのしくみはないが、しかし金のない者にとっては、また今の世の中ほど不便しごくのしくみはあるまい。[#地から1字上げ](十一月十六日)
九の三
今の世の中は、金さえあればもとより便利しごくである。しかし金がなければ不便またこの上なしである。それが今の世のしくみである。それゆえ、一方にはその肉体の健康を維持するに必要なだけの衣食をさえ得ておらぬ者がたくさんいるのに、そんな事にはさらにとんじゃくなく、他方には金持ちの人々の需要する奢侈《しゃし》ぜいたく品がうずたかく生産されつつある。これをば単に金持ちの利己心の立場からのみ見たならば、誠に勝手のよい巧妙なしくみだといえるであろうが、もし社会全体の利益を標準として考うるならば、はたしてこれをこのままに放任しておいてよいものかという疑問が起こるのである。
しかし不思議にもわが経済学は、現代経済組織の都合よき一面をのみ観察することによりてこれを謳歌《おうか》し、その組織の下における利己心の活動をば最も自由に放置することが、やがて社会公共の利益を増進するゆえんの最善の手段であるという主張をもって、創始せられたものである。
思うに個人の私益と社会の公益とが常に調和一致するものなりちょう正統経済学派の思想の泉源は、遠くこれを第十八世紀の初頭に発せしもののごとくである。回顧すれば今より二百十余年前、一七〇五年、もとオランダの医者にして後英国に移住せしマンダヴィルという者は、自作の英詩に『不平を鳴らす蜂《はち》の群れ』という題をつけ、これを定価わずかに六ペンスの小冊子に印刷して公にした事がある。そうしてこの詩編は、それより八年後の一七一四年に、著者自らこれに注
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