ても種子《たね》をまく心配もせず、二百十日が近づいても別に晴雨を気にするほどの苦労もしておらぬのに、間違いなく日々米の御飯を食べることができる。その米は、私の何も知らぬうちに、日本のどこかでだれかが少なからぬ苦労を掛けて作り出したものである。それをまただれかがさまざまのめんどうを見て、山を越え海を越え、わざわざ京都に運んで来てくれたものである。また米屋という者があって、それらの米を引き取って精白し、頼みもせぬに毎日用聞きに来てくれるし、電話でもかければ雨降りの日でもすぐ配達してくれる。かくのごとくにして、私はまた釣りもせずに魚を食い、乳もしぼらずにバタをなめ、食後には遠く南国よりもたらせし熱帯のかおり高き果実やコーヒーを味わうことさえできる。呉服屋も来る、悉皆屋《しっかいや》も来る。たとい妻女に機織りや裁縫の心得はなくとも、私は別に着る物に困りはせぬ。今住んでいる家も、私は一度も頼んだことはないが、いつのまにか家主《やぬし》の建てておいてくれたものである。もちろんわずかにひざを容《い》るに足るだけのものではあるが、それでも庭には多少の植木もあり、窓には戸締まりの用意までしてある。考えてみると、私は私の一生を送るうちに,否きょうの一日《ひとひ》を暮らすにつけても、見も知らぬおおぜいの人々から実に容易ならざるお世話をこうむっているのである。しかしこれは私ばかりではない。私よりももっとよけいの金を持っている者は、広い世間に数限りなくあるが、それらの人々は一生のうち、他人《ひと》のためには一挙手一投足の労を費やすことなくとも、天下の人々は、争うて彼に対しさらにさらに多くの親切を尽くしつつある。そこで金のある人は考える。今の世の中ほど都合よくできているものはない。だれが命令するでもなく計画したのでもないのに、世界じゅうの人が一生懸命になって他人のために働くという今日のしくみは、不思議なほどに巧妙をきわめたもので、とても人知をもって考え出すあたわざるところであると。ここにおいてか、いやしくも現代の経済組織を変更し改造せんとする者ある時は、彼らは期せずしていっせいにかつ猛烈にこれを抑圧する。
 しかし気の毒なのは金のない連中である。ことわざに地獄の沙汰《さた》も金次第というごとく、金さえあれば地獄に落つべきものも極楽に往生ができるが、金がなくては極楽にゆくべきものも地獄に落ちねば
前へ 次へ
全117ページ中62ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング