来一夢中、青山不改旧時容、烏啼月落橋辺[#「橋辺」に白丸傍点]寺、欹枕猶聞夜半鐘と。亦た前人の意を鼓動すと謂ふ可し矣」としてある。これで見ると、平野氏の言ふ所とは作者が違ひ、詩も江村寺が橋辺寺となつてゐる。

       (六)

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 (跋東坡詩草) 東坡の此詩に云ふ、清吟雑[#二]夢寐[#一]、得[#レ]句|旋《マタ》已[#(ニ)]忘[#(ル)]と。固より已に奇なり。晩に恵州に謫せられ、復た一聯を出して云ふ。春江有[#二]佳句[#一]、我酔堕[#二]渺莽[#一]と。即ち又た少作(わかき頃の作)に一等を加ふ。近世の詩人にして、老いて益※[#二の字点、1−2−22]厳なる、蓋し東坡の如きは未だ有らざる也。学者或は易心を以て之を読むは何ぞや。(渭南文集、巻二十七)
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○これは多分東坡の自筆に成る詩稿に加へられた跋文であらう。東坡の此詩に云ふとあるより考ふれば、詩は恐らく只だ一首だつたのであらう。ところで清吟雑夢寐、得句旋已忘といふ句のある東坡の此詩の全容はどんなものであるのか、私の坐右にある蘇東坡詩集の中には、いくら探しても出て来ない。それは宋人朱継芳の塵飛[#(デ)]不[#レ]到処、山色入[#二]芒※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2−8−20]《バウク》[#一]、乗[#レ]興一長吟、回[#レ]頭已忘[#レ]句を思ひ起さしめるが、恐らく朱継芳の方が年代は後であらう。春江有佳句、我酔堕渺莽の方は、幸にして詩の全体を求めることが出来た。それは和[#二]陶帰園田居六首[#一]の一つで、かういふのである。
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窮猿既[#(ニ)]投[#レ]林、  痩馬初[#(テ)]解[#レ]鞅
心空飽新得、  境熟夢餘想
江鴎漸[#(ク)]馴集、  蜑叟已[#(ニ)]還往
南池緑錢生、  北嶺紫筍長
提[#(グモ)][#レ]壺[#(ヲ)]豈解[#(センヤ)][#レ]飮[#(ヲ)]、  好語時見[#レ]廣
春江有[#二]佳句[#一]、  我酔堕[#二]渺莽[#一]
[#ここで字下げ終わり]
 さて此の最後の一聯について久保天随氏の講釈を見ると、それにはかう書いてある。「春江に臨めば、自然、佳句も出来るが、やがて我は酔うて、草木渺莽たる中に倒れて寐てしまつた」。これでは東坡先生も苦笑されざるを得ないだらう。詩にいふ渺莽《ベウバウ》は、広くしてはてしなき貌。そしてその渺莽に堕つるものは、東坡先生ではなく、春江の佳句である。かくして、句を得てまた已に忘ると云ふやうな、おもしろくはあつてもまだ露骨なるを免れなかつたものが、春の霞の如く詩化され、そこに一段の進境を示す。放翁の老いて益※[#二の字点、1−2−22]厳といふ評言は、それを指すのであらう。
○前に引いた朱承爵の存余堂詩話を見ると、「東坡、少年詩あり云ふ、清吟雑夢寐、得句旋已忘と。固《もと》より已に奇なり。晩に恵州に謫せられ、復た一聯ありて云ふ、春江有佳句、我酔堕渺莽と。即ち又た少作に一等を加ふ。書家を評して筆年老に随ふと謂ふ、豈に詩も亦た然らざらんや」としてある。詩話など書くほどの人が先人の説を剽窃して平気で居るのであらうか。

       (七)

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 東坡の牡丹の詩に云ふ、一朶妖紅翠欲[#レ]流と。初め翠欲流の何の語なるやを暁らず。成都に遊ぶに及び、木行街を過《よ》ぎりしに、市肆に大署して曰ふあり、郭家鮮翠紅紙鋪と。土人に問うて、乃ち蜀語の鮮翠は猶ほ鮮明と言ふがごとくなるを知る。東坡蓋し郷語を用ひて云へるなり。(老学庵筆記、巻八)
[#ここで字下げ終わり]

○東坡の詩は和[#二]述古冬日牡丹[#一]四首と題せるものの一にして、それは次の如くである。
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一朶[#(ノ)]妖紅翠欲[#(ス)][#レ]流[#(レント)]、  春光囘照雪霜羞
化工只欲[#レ]呈[#二]新巧[#一]、  不[#下]放[#二]間花[#一]得[#中]少休[#上]
[#ここで字下げ終わり]
 続国訳漢文大成を見るに、ここは岩垂憲徳氏の訳解になつて居り、そして私がここに引いた老学庵筆記が引用されてゐる。私はこれによつて此の筆記が必ずしも世に顧みられないものでない事を知るを得た。なほ岩垂氏は字解といふ所で、宋の高似孫の緯略なるものを引用してゐる。それには、かう云つてある。「翠は鮮明の貌、色に非らざる也。然らずんば、東坡の詩、既に紅と曰へり、又た翠と曰ふ可ならんや」。

       (八)

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 東坡、嶺海の間に在りて、最も陶淵明柳子厚の二集を喜び、之を南遷の二友と謂ふ。予、宋白尚書の玉津雑詩を読むに、云ふあり、坐臥将何物、陶詩与柳文と。則ち前人、蓋し公と暗合する者あるなり。(老学庵筆記、巻九)
[#ここで字下げ終わり]

       (九)

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 東坡の絶句に云ふ、梨花澹白柳深青、柳絮飛時花満[#レ]城、惆悵東闌一株雪、人生看得幾清明と。紹興中、予福州に在り、何晋之の大著を見しに、自ら言ふ、嘗て張文潜に従うて遊ぶ、文潜の此詩を哦するを見る毎《ごと》に、以て及ぶ可らずと為せしと。余按ずるに、杜牧之、句あり云ふ、砌下梨花一堆雪、明年誰[#(カ)]此《ココ》[#(ニ)]憑[#二]闌干[#一]と。東坡|固《もと》より牧之の詩を窃《ぬす》む者に非ず、然かも竟《つひ》に是れ前人已に之を道《い》へるの句、何んすれぞ文潜之を愛するの深きや、豈に別に謂《おも》ふ所あるか。聊《いささ》か之を記し以て識者を俟《ま》つ。(老学庵筆記、巻十)
[#ここで字下げ終わり]

○東坡の詩は、和孔密州五絶の一で、東欄梨花と題するもの。杜牧之は世にいふ小杜、杜牧のこと。彼は晩唐の人である。

       (十)

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 柳子厚の詩に云ふ、海上尖山似[#二]剣鋩[#一]、秋来処処割[#二]愁腸[#一]と。東坡之を用ひて云ふ、割愁|還《マタ》有[#二]剣鋩山[#一]と。或は謂ふ、割愁腸と言ふべし、但《た》だ割愁と言ふ可からずと。亡兄仲高云ふ、晋の張望の詩に曰ふ、愁来不可割と、此れ割愁二字の出処なりと。(老学庵筆記、巻二)
[#ここで字下げ終わり]

○東坡の詩は白鶴峰新居欲[#レ]成夜過[#二]西隣※[#「羽/隹」、第3水準1−90−32]秀才[#一]二首と題せるものの一。問題の句は、繋[#レ]悶豈無[#二]羅帯水[#一]、割愁還有[#二]剣鋩山[#一]といふ一聯を成せるもの。前の句は韓退之、後の句は柳子厚によることは、その自註に記してある。但し続国訳漢文大成では、自註に引く所の柳子厚の句が海上尖峰若剣鋩[#「峰若」に白丸傍点]となつてゐる。放翁は記憶に従つて筆を執り、誤つて峰を山となし若を似となしたのであらうか。蔵書に乏しい私は、今これを審にし得ない。

       (十一)

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 夜涼疑有雨、院静似無僧。これ潘逍遥の詩なり。(老学庵筆記、巻五)
[#ここで字下げ終わり]

○東坡の詩
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佛燈漸暗饑鼠出、  山雨忽來脩竹鳴
知[#(ル)]是[#(レ)]何人[#(ノ)]舊詩句、  已應[#レ]知[#二]我此時情[#一]
[#ここで字下げ終わり]
といふ七絶の題には、「少年の時、嘗て一村院を過《よ》ぎり、壁上に詩あるを見る。云ふ、夜涼疑[#レ]有[#レ]雨、院静似[#レ]無[#レ]僧と。何人の詩なるやを知らざる也。黄州禅智寺に宿せしに、寺僧皆な在らず、夜半雨|作《おこ》り、尚ほ此の詩を記《おぼ》ゆ。故に一絶を作る」としてある。知是何人旧詩句の知るは、知らずの意であること、言ふまでもない。東坡の詩によつて伝へられた此の句は、私のやうなものでも記憶してゐるから、長生して書物ばかり読んでゐた放翁が、ふとこんな事を見付けて居るのは、何も不思議はない。潘逍遥は名を※[#「門<良」、第3水準1−93−50]《ラウ》と云ふ。宋の太宗に召されて進士第を賜ひ、事に坐して中条山に遁れ、後収繋されしも、真宗その罪を釈し、※[#「さんずい+除」、第3水準1−86−94]州参軍となす。詩集及び詞集あり。日本では中野逍遥、坪内逍遥などいふ文学者が居た。これらの人はこの潘逍遥を知つて居たのであらうか。

       (十二)

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 (跋淵明集) 吾年十三四の時、先少傅に侍し城南の小隠に居る。偶※[#二の字点、1−2−22]《たまたま》藤床上、淵明の詩あるを見、因て取りて之を読む。欣然会心、日|且《まさ》に暮れんとし、家人食に呼ぶも、詩を読む方《まさ》に楽く、夜に至つて卒《つひ》に食に就かず。今之を思ふに、数日前の事の如く也。慶元二年、歳在乙卯、九月二十九日。山陰陸某務観、書於三山亀堂、時年七十有一。(渭南文集、巻二十八)
[#ここで字下げ終わり]

○放翁六十九歳の作に読陶詩と題するものあり、その冒頭に、「我が詩淵明を慕ふ、恨むらくは其の微に造《いた》らざることを」とあり、また八十三歳の作に自勉と題するものあり、その冒頭には、「詩を学べば当《まさ》に陶を学ぶべく、書を学べば当に顔を学ぶべし」としてある。以て如何に彼が陶淵明に傾倒せしかを知るに足る。

       (十三)

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 茶山先生云ふ。徐師川、荊公の細[#(ニ)]数[#(ヘ)][#二]落花[#(ヲ)][#一]因[#(リテ)]坐[#(スルコト)]久[#(ク)]、緩[#(ニ)]尋[#(テ)][#二]芳草[#(ヲ)][#一]得[#(ルコト)][#レ]帰[#(ヲ)]遅[#(シ)]に擬して云ふ、細[#(ニ)]落[#(ツノ)]李花那[#(ゾ)]可[#(ン)][#レ]数[#(フ)]、偶行[#(キテ)][#二]芳草[#(ヲ)][#一]歩[#(スルコト)]因[#(テ)]遅[#(シ)]と。初め其意を解せず、久くして乃ち之を得。蓋し師川は専ら陶淵明を師とせる者なり。淵明の詩、皆な適然寓意、物に留まらず。悠然見南山の如し。東坡の其の決して南山を望むに非ざるを知る所以《ゆゑん》なり。今、細数落花、緩尋芳草と云へば、留意甚し、故に之を易《か》ふと。又云ふ。荊公多く淵明の語を用ひ而かも意異なる。柴門雖設要常関、雲尚無心能出岫の如き、要字能字皆な淵明の本意に非ざる也と。(老学庵筆記、巻四)
[#ここで字下げ終わり]

○これは全部他人の説を引いただけのものだが、もちろん賛同の意を含めての引用である。文中にいふところの荊公とは王安石のこと。詩は北山と題する七絶で、全文を写し出せば次の如くである。北山輸[#(シテ)][#レ]緑[#(ヲ)]漲[#(ル)][#二]横陂[#(ニ)][#一]、直塹回塘※[#「さんずい+艶」、第4水準2−79−53]※[#「さんずい+艶」、第4水準2−79−53]時、細[#(ニ)]数[#(ヘ)][#二]落花[#(ヲ)][#一]因[#(リテ)]坐[#(スルコト)]久[#(ク)]、緩[#(ニ)]尋[#(テ)][#二]芳草[#(ヲ)][#一]得[#(ルコト)][#レ]帰[#(ヲ)]遅[#(シ)]。
○なほ文中に東坡の云々と言つてあるのは、東坡の次の説を指したものである。「采[#(リ)][#二]菊[#(ヲ)]東籬[#(ノ)]下[#(ニ)][#一]、悠然[#(トシテ)]見[#(ル)][#二]南山[#(ヲ)][#一]。これは菊を采る次いでに偶然山を見るのである。初めより意を用ひずして、境と意と会ふ、故に喜ぶべき也。もし望南山となせば便ち興味索然たるを覚ゆ」。

       (十四)

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 (跋王右丞集) 余年十七八の時、摩詰の詩を読む最も熟す。後、遂に之を置くもの幾《ほと》んど六十年。今年七十七、永昼無事、再び取つて之を読む。旧師友を見るが如し、間闊の久きを恨む。(渭南文集、巻二十九)
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○王右丞、摩詰、共に王維のこと。この跋文は王維に対する放翁の関係を知るに足るもの。

       (十五)

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 (跋花間
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