放翁鑑賞
その七 ――放翁詩話三十章――
河上肇

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)此は但《た》だ

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(例)相|与《とも》に

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(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]

 [#…]:返り点
 (例)四月熟[#二]黄梅[#一]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)五月臨[#(メバ)]
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渭南文集五十巻、老学庵筆記十巻、詩に関する
説話の散見するものを、拾ひ集めて此篇を成す。
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      放翁詩話

       (一)

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 呉幾先嘗て言ふ、参寥の詩に五月臨[#(メバ)][#二]平山下路[#一]、藕花無数満[#(ツ)][#二]汀洲[#(ニ)][#一]と云へるも、五月は荷花の盛時に非ず、無数満汀洲と云ふは当らず、と。廉宣仲云ふ、此は但《た》だ句の美を取る、もし六月臨平山下路と云はば、則ち佳ならず、と。幾先云ふ、只だ是れ君が記得熟す、故に五月を以て勝《まさ》れりと為すも、実は然らず、止《た》だ六月と云ふも亦た豈に佳ならざらんや、と。(老学庵筆記、巻二)
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       (二)

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 杜子美の梅雨の詩に云ふ、南京犀浦道、四月熟[#二]黄梅[#一]、湛湛[#(トシテ)]長江去[#(リ)]、冥冥[#(トシテ)]細雨来[#(ル)]、茅茨疎[#(ニシテ)]易[#レ]湿、雲霧密[#(ニシテ)]難[#レ]開、竟日蛟竜喜、盤渦与[#レ]岸回と。蓋し成都にて賦せる所なり。今の成都は乃ち未だ嘗て梅雨あらず、惟《た》だ秋半積陰、気令蒸溽、呉中梅雨の時と相類するのみ。豈に古今地気同じからざるあるか。(老学庵筆記、巻六)
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       (三)

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 欧陽公の早朝の詩に云ふ、玉勒争門随仗入、牙牌当殿報班斉と。李徳芻言ふ、昔より朝儀未だ嘗て牙牌報班斉と云ふ事あらずと。予之を考ふるに、実に徳芻の説の如し。朝儀に熟する者に問ふも、亦た惘然、以て有るなしと為す。然かも欧陽公必ず誤まらざらん、当《まさ》に更に博《ひろ》く旧制を攷《かんが》ふべき也。(老学庵筆記、巻七)
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       (四)

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 張文昌の成都曲に云ふ、錦江近西煙水緑、新雨山頭茘枝熟、万里橋辺多[#二]酒家[#一]、遊人愛[#下]向[#二]誰家[#一]宿[#上]と。此れ未だ嘗て成都に至らざる者なり。成都には山なし、亦た茘枝なし。蘇黄門の詩に云ふ、蜀中茘枝出[#二]嘉州[#一]、其余及[#レ]眉半有不と。蓋し眉の彭山県(註、成都の南方)、已に茘枝なし、況や成都をや。(老学庵筆記、巻五)
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○以上の四項は、いづれも放翁が如何に実事の追究に徹底的であつたかを示さんがために、写し出したのである。
 その雑書と題する詩(剣南詩稿巻五十二)に云ふ、枳籬莎径入[#二]荊扉[#一]、中有[#二]村翁[#一]百結衣、誰識新年歓喜事、一※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]一犬伴[#レ]東帰と。そして自註には※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]犬皆実事としてある。また貧舎写興と題する詩(詩稿巻六十八)に云ふ、粲粲新霜縞[#二]瓦溝[#一]、離離寒菜入[#二]盤羞[#一]、贅童擁[#レ]※[#「竹/彗」、読みは「すい」、489−12]掃[#二]枯葉[#一]、瞶婢挑[#レ]灯縫[#二]破裘[#一]と。そしてこゝにも亦た自ら註して贅瞶皆紀実としてある。彼は自分で詩を作る場合にも、決して好い加減のでたらめを書いては居ないのである。
 私は之についてゴルキーを思ひ出さずには居られない。今私の手許にある彼の『文学論』は、十分信頼の出来る訳書だとは思へないが、その中から、彼の見解の一端を見るに足る或る一つの個所を、ここに写し出して見よう。
 次の一節は、マルチャノフといふ新人の長編小説『農民』について言つてゐる言葉である。――
「多くの批評家はマルチャノフをひどく称讃してゐるが、私は次のことを言はざるを得ない。即ち彼は才能ある人ではあるが、文学者としては恐ろしく無学であると。その証拠には、二一〇頁に、「ヴラディミル・イリイッチの命によつて、マドヴェイは前世紀の九十八年にペテルブルグからウラル地方へ移り、そこで老ボルシェヴィク親衛兵の戦闘部隊を組織した」などと書いてあるが、しかし九十八年にはヴェ・イリイッチは追放されてゐたので、ペテルブルグには居なかつたのである。またこの作者は、どんな戦闘部隊について語つてゐるのだらうか? 元來このやうな戦闘部隊が出来たのは、ずつと後年のことである。作者はまた或る場所で、めす鶯の震へ声のことを書いてゐるが、鳥の雌が鳴かない位のことは、農村の子供なら誰だつて知つてゐる。作者はまた、ある富農の家でキリスト変容祭を祝ふために準備された御馳走のことを、「酸クリームでこつてり味をつけ、そしてバタを初氷のやうに薄くぬつた大麦製のでかい饅頭、アンナの胸のやうに豊麗な小麦製の白いシャニガ(訳注、凝乳菓子の一種)、食卓一杯に並んだ大きな魚入饅頭、それから数へ切れないほどのフヴォーロスト(訳注、油で揚げた焼菓子)や凝乳菓子など。またペーチカの床の上には、脂ぎつた肉のシチュー皿、鱈の耳のスープ皿、ハム、犢肉、松※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の肉、粥、バタ、ソース等々が、ずらりと並んでゐた。云々」と書いてゐるが、作者が書き並べた数だけの皿を農家のペーチカの床の上に置くことは、物理学的に不可能なのである」。
○序ながら放翁の文中に見えてゐる茘枝《レイシ》のことを説明しておく。この木は、高さ三丈許、葉の状は箭鏃の如くにして平滑、その果は竜眼《リュウガン》(新村出氏の『辞苑』にその図出づ)の実に似て、熟すれば真赤になり、肉は白くして甘き汁に富む。蘇東坡の潮州韓文公廟碑の終に於《ココニ》餐[#三]茘丹与[#二]蕉黄[#一]としてあるが、この茘丹と云ふのが即ち茘枝の果である。恐らく之は極めて珍らしいものなのであらう。放翁は次のやうな事も書き残してゐる。「予、成都議※[#「巾+莫」、よみは「ばく」、490−16]に参し、事を漢嘉に摂し、一たび茘子の熟するを見る。時に凌雲山、安楽園、皆な盛処。糾曹何預元立、法曹蔡※[#「しんにゅう+台」、第3水準1−92−53]肩吾、皆な佳士。相|与《とも》に同じく楽む。薛許昌、亦た嘗て成都幕府を以て来り郡を摂す。未だ久しからずして罷《や》め去る。故に其の茘枝の詩に曰ふ、歳杪監州曾見樹、時新入座但聞名と。蓋し時に及ばざりしを恨める也。毎《つね》に二君と之を誦す」。更に次のやうな他人の事まで書き誌してある。「余深、相を罷《や》めて福州の第中に居る。茘枝あり初めて実《みの》る。絶大にして美、名づけて亮功紅と曰ふ。亮功は深家御書閣の名なり。靖康中、深、建昌軍に謫せられ、既に行く。茘枝復た実らず。明年深帰りしに、茘枝復た故《もと》の如し。云々」。茘枝と云ふものの極めて珍らしきものなることを想像するに足る。
○序に今一つ書き添へておかう。東坡が恵州に謫されてゐた頃の詩に和陶帰園田居六首と題するものがあり、その引の中には「茘子※[#「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1−90−24]※[#「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1−90−24]、※[#「くさかんむり/欠」、第3水準1−90−63]実の如し。父老あり、年八十五、指して以て余に告げて曰く、是の食ふ可きに及んで、公、能く酒を携《たづさ》へて来り游ばんかと」としてあるが、更に※[#「くさかんむり/意」、第3水準1−91−30]苡と題する詩の中には、「草木各※[#二の字点、1−2−22]|宜《よろし》きあり、珍産南荒に駢《なら》ぶ。絳嚢茘枝を懸《か》け、雪粉※[#「木+光」、第4水準2−14−63]榔を剖《さ》く」といふ句がある。絳《カウ》はこきあかき色。茘支が真赤に熟したのを、絳《あか》き嚢を懸けたやうだと形容したのであらう。ここにも南荒の珍産としてあるから、暖い南支那以外には滅多に見られないものなのであらう。さて余談のまた余談になるが、続国訳漢文大成に収められてゐる蘇東坡詩集を見ると、先きに引いた句が次のやうに講釈されてゐる。「草木とても各※[#二の字点、1−2−22]宜しきところがあつて、南荒の地に於ては、殊に珍産が並列して居る。茘支は、赤い嚢を雑へて懸くべく、※[#「木+光」、第4水準2−14−63]榔を断ち破れば、中には雪の如き粉があつて、とりどりに珍らしい云々」。ところで、赤い嚢を雑へて懸けるとは、どんなことをするのであらう。不思議に思つて字解のところを見ると、蔡君謨の茘支の詩に、厚葉繊枝雑絳嚢とあるとしてある。なるほど厚葉繊枝の間に雑ざつて茘丹が赤い嚢のやうに懸かつてゐると云ふのなら解かるが、ただ赤い嚢を雑へて懸けるでは、どうにもならない。一体誰がこんな事を書いてゐるのかと巻首を見たら、文学博士久保天随訳解としてあつた。

       (五)

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 張継の楓橋夜泊の詩に云ふ、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到[#二]客船[#一]と。欧陽公之を嘲りて云ふ、句は則ち佳なるも、夜半は是れ打鐘の時にあらざるを如何せんと。後人また謂ふ、惟《た》だ蘇州にのみ半夜の鐘ありしなりと。皆な非なり。按ずるに于※[#「業+おおざと」、第3水準1−92−83]褒中即事詩に云ふ、遠鐘来[#二]半夜[#一]、明月入[#二]千家[#一]と。皇甫冉、秋夜会稽の厳維の宅に宿すの詩に云ふ、秋深臨[#レ]水月、夜半隔[#レ]山鐘と。此れ豈に亦た蘇州の詩ならんや。恐らく唐時の僧寺には自ら夜半の鐘ありしなり。京都街鼓今尚ほ廃す。後生唐の詩文を読んで街鼓に及ぶ者、往々にして茫然知る能はず。況《いは》んや僧寺夜半の鐘をや。(老学庵筆記、巻十)
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○唐詩選岩波文庫版の註には、この夜半の鐘声について次の如き註が加へてある。「夜半に鐘声あるか無きかに就いて古来論あり。胡応麟曰く、夜半の鐘声客船に到る、談者紛紛、皆昔人のために愚弄せらる。詩は流景を借りて言を立つ、惟だ声律の調、興象の合ふに在り、区々の事実彼れ豈に計るに暇あらんや。夜半の是非を論ずるなかれ、即ち鐘声を聞くや否やも未だ知るべからざるなりと」。かくの如く、胡応麟は、詩に於ては区々の事実は豈に計るに暇あらんや、として居るが、放翁の態度が之と徹底的に対蹠的であることは、以上各項の示すが如くである。
○放翁自身にも宿楓橋と題する七絶があるが、それには七年不到楓橋寺、客枕依然半夜鐘としてある。これはもちろん実際に半夜の鐘声を聴いたのではない、張継の作によつて其の遺響が今尚ほ詩の世界に伝はつてゐるのを、物理的な鐘声よりもより鮮かに聴いたのである。これは夜半鐘声到客船といふ張継の詩が遺つてゐたが故に、始めて生じる詩境である。かくて私はここでも復た、ゴルキーの「真の芸術は拡大誇張の法則を有する、それは単なる空想の所産ではなくて、客観的な諸事実の全く合法則的な且つ必然的な詩的誇張である」とか、「偉大な芸術にあつては、ロマンチズムとリアリズムとが何時でもまるで融合されて居るかのやうである」とかいふ言葉を思ひ出す。
○平野秀吉氏の唐詩選全釈には、「後、張継、再び此に来り、重泊楓橋と題して、白髪重来一夢中、青山不改旧時容、烏啼月落江村寺、欹枕猶聴夜半鐘と詠じたが、詩品も劣り、且つ全唐詩にも載せざるを見れば、或は後人の偽作か」としてある(簡野道明氏著『唐詩選詳説』にも之と同じことが書いてある)。しかるに明の朱承爵の存余堂詩話を見ると、「張継の楓橋夜泊の詩は、世多く伝誦す。近ごろ孫仲益の楓橋寺を過ぎる詩を読むに、云ふ、白首重
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