非なり。按ずるに于※[#「業+おおざと」、第3水準1−92−83]褒中即事詩に云ふ、遠鐘来[#二]半夜[#一]、明月入[#二]千家[#一]と。皇甫冉、秋夜会稽の厳維の宅に宿すの詩に云ふ、秋深臨[#レ]水月、夜半隔[#レ]山鐘と。此れ豈に亦た蘇州の詩ならんや。恐らく唐時の僧寺には自ら夜半の鐘ありしなり。京都街鼓今尚ほ廃す。後生唐の詩文を読んで街鼓に及ぶ者、往々にして茫然知る能はず。況《いは》んや僧寺夜半の鐘をや。(老学庵筆記、巻十)
[#ここで字下げ終わり]

○唐詩選岩波文庫版の註には、この夜半の鐘声について次の如き註が加へてある。「夜半に鐘声あるか無きかに就いて古来論あり。胡応麟曰く、夜半の鐘声客船に到る、談者紛紛、皆昔人のために愚弄せらる。詩は流景を借りて言を立つ、惟だ声律の調、興象の合ふに在り、区々の事実彼れ豈に計るに暇あらんや。夜半の是非を論ずるなかれ、即ち鐘声を聞くや否やも未だ知るべからざるなりと」。かくの如く、胡応麟は、詩に於ては区々の事実は豈に計るに暇あらんや、として居るが、放翁の態度が之と徹底的に対蹠的であることは、以上各項の示すが如くである。
○放翁自身にも宿楓橋と題する七絶があるが、それには七年不到楓橋寺、客枕依然半夜鐘としてある。これはもちろん実際に半夜の鐘声を聴いたのではない、張継の作によつて其の遺響が今尚ほ詩の世界に伝はつてゐるのを、物理的な鐘声よりもより鮮かに聴いたのである。これは夜半鐘声到客船といふ張継の詩が遺つてゐたが故に、始めて生じる詩境である。かくて私はここでも復た、ゴルキーの「真の芸術は拡大誇張の法則を有する、それは単なる空想の所産ではなくて、客観的な諸事実の全く合法則的な且つ必然的な詩的誇張である」とか、「偉大な芸術にあつては、ロマンチズムとリアリズムとが何時でもまるで融合されて居るかのやうである」とかいふ言葉を思ひ出す。
○平野秀吉氏の唐詩選全釈には、「後、張継、再び此に来り、重泊楓橋と題して、白髪重来一夢中、青山不改旧時容、烏啼月落江村寺、欹枕猶聴夜半鐘と詠じたが、詩品も劣り、且つ全唐詩にも載せざるを見れば、或は後人の偽作か」としてある(簡野道明氏著『唐詩選詳説』にも之と同じことが書いてある)。しかるに明の朱承爵の存余堂詩話を見ると、「張継の楓橋夜泊の詩は、世多く伝誦す。近ごろ孫仲益の楓橋寺を過ぎる詩を読むに、云ふ、白首重来一夢中、青山不改旧時容、烏啼月落橋辺[#「橋辺」に白丸傍点]寺、欹枕猶聞夜半鐘と。亦た前人の意を鼓動すと謂ふ可し矣」としてある。これで見ると、平野氏の言ふ所とは作者が違ひ、詩も江村寺が橋辺寺となつてゐる。

       (六)

[#ここから2字下げ]
 (跋東坡詩草) 東坡の此詩に云ふ、清吟雑[#二]夢寐[#一]、得[#レ]句|旋《マタ》已[#(ニ)]忘[#(ル)]と。固より已に奇なり。晩に恵州に謫せられ、復た一聯を出して云ふ。春江有[#二]佳句[#一]、我酔堕[#二]渺莽[#一]と。即ち又た少作(わかき頃の作)に一等を加ふ。近世の詩人にして、老いて益※[#二の字点、1−2−22]厳なる、蓋し東坡の如きは未だ有らざる也。学者或は易心を以て之を読むは何ぞや。(渭南文集、巻二十七)
[#ここで字下げ終わり]

○これは多分東坡の自筆に成る詩稿に加へられた跋文であらう。東坡の此詩に云ふとあるより考ふれば、詩は恐らく只だ一首だつたのであらう。ところで清吟雑夢寐、得句旋已忘といふ句のある東坡の此詩の全容はどんなものであるのか、私の坐右にある蘇東坡詩集の中には、いくら探しても出て来ない。それは宋人朱継芳の塵飛[#(デ)]不[#レ]到処、山色入[#二]芒※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2−8−20]《バウク》[#一]、乗[#レ]興一長吟、回[#レ]頭已忘[#レ]句を思ひ起さしめるが、恐らく朱継芳の方が年代は後であらう。春江有佳句、我酔堕渺莽の方は、幸にして詩の全体を求めることが出来た。それは和[#二]陶帰園田居六首[#一]の一つで、かういふのである。
[#ここから2字下げ]
窮猿既[#(ニ)]投[#レ]林、  痩馬初[#(テ)]解[#レ]鞅
心空飽新得、  境熟夢餘想
江鴎漸[#(ク)]馴集、  蜑叟已[#(ニ)]還往
南池緑錢生、  北嶺紫筍長
提[#(グモ)][#レ]壺[#(ヲ)]豈解[#(センヤ)][#レ]飮[#(ヲ)]、  好語時見[#レ]廣
春江有[#二]佳句[#一]、  我酔堕[#二]渺莽[#一]
[#ここで字下げ終わり]
 さて此の最後の一聯について久保天随氏の講釈を見ると、それにはかう書いてある。「春江に臨めば、自然、佳句も出来るが、やがて我は酔うて、草木渺莽たる中に倒れて寐てしまつた」。これでは東坡先生も苦笑されざるを得ないだらう。詩にいふ渺莽《ベウバウ
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング