》は、広くしてはてしなき貌。そしてその渺莽に堕つるものは、東坡先生ではなく、春江の佳句である。かくして、句を得てまた已に忘ると云ふやうな、おもしろくはあつてもまだ露骨なるを免れなかつたものが、春の霞の如く詩化され、そこに一段の進境を示す。放翁の老いて益※[#二の字点、1−2−22]厳といふ評言は、それを指すのであらう。
○前に引いた朱承爵の存余堂詩話を見ると、「東坡、少年詩あり云ふ、清吟雑夢寐、得句旋已忘と。固《もと》より已に奇なり。晩に恵州に謫せられ、復た一聯ありて云ふ、春江有佳句、我酔堕渺莽と。即ち又た少作に一等を加ふ。書家を評して筆年老に随ふと謂ふ、豈に詩も亦た然らざらんや」としてある。詩話など書くほどの人が先人の説を剽窃して平気で居るのであらうか。
(七)
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東坡の牡丹の詩に云ふ、一朶妖紅翠欲[#レ]流と。初め翠欲流の何の語なるやを暁らず。成都に遊ぶに及び、木行街を過《よ》ぎりしに、市肆に大署して曰ふあり、郭家鮮翠紅紙鋪と。土人に問うて、乃ち蜀語の鮮翠は猶ほ鮮明と言ふがごとくなるを知る。東坡蓋し郷語を用ひて云へるなり。(老学庵筆記、巻八)
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○東坡の詩は和[#二]述古冬日牡丹[#一]四首と題せるものの一にして、それは次の如くである。
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一朶[#(ノ)]妖紅翠欲[#(ス)][#レ]流[#(レント)]、 春光囘照雪霜羞
化工只欲[#レ]呈[#二]新巧[#一]、 不[#下]放[#二]間花[#一]得[#中]少休[#上]
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続国訳漢文大成を見るに、ここは岩垂憲徳氏の訳解になつて居り、そして私がここに引いた老学庵筆記が引用されてゐる。私はこれによつて此の筆記が必ずしも世に顧みられないものでない事を知るを得た。なほ岩垂氏は字解といふ所で、宋の高似孫の緯略なるものを引用してゐる。それには、かう云つてある。「翠は鮮明の貌、色に非らざる也。然らずんば、東坡の詩、既に紅と曰へり、又た翠と曰ふ可ならんや」。
(八)
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東坡、嶺海の間に在りて、最も陶淵明柳子厚の二集を喜び、之を南遷の二友と謂ふ。予、宋白尚書の玉津雑詩を読むに、云ふあり、坐臥将何物、陶詩与柳文と。則ち前人、蓋し公と暗合する者あるなり。(老学庵筆記、巻九)
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(九)
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東坡の絶句に云ふ、梨花澹白柳深青、柳絮飛時花満[#レ]城、惆悵東闌一株雪、人生看得幾清明と。紹興中、予福州に在り、何晋之の大著を見しに、自ら言ふ、嘗て張文潜に従うて遊ぶ、文潜の此詩を哦するを見る毎《ごと》に、以て及ぶ可らずと為せしと。余按ずるに、杜牧之、句あり云ふ、砌下梨花一堆雪、明年誰[#(カ)]此《ココ》[#(ニ)]憑[#二]闌干[#一]と。東坡|固《もと》より牧之の詩を窃《ぬす》む者に非ず、然かも竟《つひ》に是れ前人已に之を道《い》へるの句、何んすれぞ文潜之を愛するの深きや、豈に別に謂《おも》ふ所あるか。聊《いささ》か之を記し以て識者を俟《ま》つ。(老学庵筆記、巻十)
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○東坡の詩は、和孔密州五絶の一で、東欄梨花と題するもの。杜牧之は世にいふ小杜、杜牧のこと。彼は晩唐の人である。
(十)
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柳子厚の詩に云ふ、海上尖山似[#二]剣鋩[#一]、秋来処処割[#二]愁腸[#一]と。東坡之を用ひて云ふ、割愁|還《マタ》有[#二]剣鋩山[#一]と。或は謂ふ、割愁腸と言ふべし、但《た》だ割愁と言ふ可からずと。亡兄仲高云ふ、晋の張望の詩に曰ふ、愁来不可割と、此れ割愁二字の出処なりと。(老学庵筆記、巻二)
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○東坡の詩は白鶴峰新居欲[#レ]成夜過[#二]西隣※[#「羽/隹」、第3水準1−90−32]秀才[#一]二首と題せるものの一。問題の句は、繋[#レ]悶豈無[#二]羅帯水[#一]、割愁還有[#二]剣鋩山[#一]といふ一聯を成せるもの。前の句は韓退之、後の句は柳子厚によることは、その自註に記してある。但し続国訳漢文大成では、自註に引く所の柳子厚の句が海上尖峰若剣鋩[#「峰若」に白丸傍点]となつてゐる。放翁は記憶に従つて筆を執り、誤つて峰を山となし若を似となしたのであらうか。蔵書に乏しい私は、今これを審にし得ない。
(十一)
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夜涼疑有雨、院静似無僧。これ潘逍遥の詩なり。(老学庵筆記、巻五)
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○東坡の詩
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佛燈漸暗饑鼠出、 山雨忽來脩竹鳴
知[#(ル)]是[#(レ)]何人[#(ノ)]舊詩句、 已應[#レ]知[#二]我此時
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