ふ、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到客船と。欧陽公之を嘲りて云ふ、句は則ち佳なるも、夜半は是れ打鐘の時にあらざるを如何せんと。後人又た謂ふ、ただ蘇州にのみ半夜の鐘ありしなりと。皆な非なり。按ずるに于※[#「業+おおざと」、第3水準1−92−83]褒中即事の詩に云ふ、遠鐘半夜に来り、明月千家に入ると。皇甫冉、秋夜会稽の厳維の宅に宿する詩に云ふ、秋深うして水に臨むの月、夜|半《なか》ばにして山を隔つるの鐘と。此れ豈に亦た蘇州の詩ならんや。恐らく唐時の僧寺には自ら夜半の鐘ありしなり。京都街鼓、今尚ほ廃す。後生、唐の詩文を読み街鼓に及ぶ者、往々にして茫然知る能はず。況《いは》んや僧寺夜半の鐘をや」。これが「飽くまで識る三千余歳の事」と自ら詠じたことのある放翁の見解である。さてこそ彼は楓橋に宿し、唐の昔に鳴り響いたであらう夜半の鐘の音を偲んで、客枕依然半夜鐘と詠じたのである。もちろん実際に鐘の声を聞いたのではない、しかしまた彼の詩魂は、唐詩に伝はる殷殷たる夜半の鐘声を、実際に聴いたのでもある。
 当時彼は、※[#「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1−15−72]州の通判に任ぜられたため、乾
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