、嘗て欧陽修が夜半は鐘鳴の時に非ずといふ説を出してから、異説百出、或は之を以て早暁の詩となし、夜半といふは極めて早きことの誇張と解する者あり、或は夜半鐘と云ふのは鐘の名であるとなす者あり、或は蘇州の寺に限り夜半に鐘を鳴らしたのだらうと説く者あり。今日になつても、例へば岩波文庫版の註を見ると、「夜半に鐘声あるか無きかに就いて古来論あり。胡応麟曰く、夜半の鐘声客船に到る、談者紛紛、皆な昔人の為に愚弄せらる。詩は流景を借りて言を立つ、ただ声律の調、興象の合ふに在り。区々の事実彼れ豈に計るに暇あらんや。夜半の是非を論ずるなかれ、即ち鐘声を聞くや否やも未だ知るべからざるなりと」としてある。これで見ると、事実はどうでもいいぢやないかと云ふことに、話は落ちてしまつたやうである。ところで放翁は、かくも問題のある楓橋にやつて来て、七年前と同じ半夜の鐘を聞いたと詠じてゐる。これは果して胡応麟が云ふやうに、事実の如何を顧みない単なる言葉の調子であらうか。否、放翁の作詩の態度は断じてさういふ解釈を許さない。果して彼の晩年の随筆集たる老学庵筆記を見ると、巻十の中で、彼は次の如く書いてゐる。「張継楓橋夜泊の詩に云
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