放翁鑑賞
その六 ――放翁絶句十三首和訳(つけたり、雑詩七首)――
河上肇

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)七年《ななとせ》ぶりに

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)粟|食《は》まさんと

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「業+おおざと」、第3水準1−92−83]
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数日来残暑甚、羸躯発熱臥床、
枕上成此稿。辛巳八月二十三日。

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楓橋に宿りて
  宿楓橋
七年不到楓橋寺  客枕依然半夜鐘
風月未須輕感慨  巴山此去尚千重
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七年《ななとせ》ぶりに来て見れば
まくらにかよふ楓橋の
むかしながらの寺の鐘
鐘のひびきの悽《かな》しくも
そそぐ泪はをしめかし
身は蜀に入る客にして
巴山はとほし千里の北
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 この楓橋は、唐の張継の詩、月落烏啼霜満天、江楓漁火対愁眠、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到客船によつて、有名である。しかし此の詩に関しては、嘗て欧陽修が夜半は鐘鳴の時に非ずといふ説を出してから、異説百出、或は之を以て早暁の詩となし、夜半といふは極めて早きことの誇張と解する者あり、或は夜半鐘と云ふのは鐘の名であるとなす者あり、或は蘇州の寺に限り夜半に鐘を鳴らしたのだらうと説く者あり。今日になつても、例へば岩波文庫版の註を見ると、「夜半に鐘声あるか無きかに就いて古来論あり。胡応麟曰く、夜半の鐘声客船に到る、談者紛紛、皆な昔人の為に愚弄せらる。詩は流景を借りて言を立つ、ただ声律の調、興象の合ふに在り。区々の事実彼れ豈に計るに暇あらんや。夜半の是非を論ずるなかれ、即ち鐘声を聞くや否やも未だ知るべからざるなりと」としてある。これで見ると、事実はどうでもいいぢやないかと云ふことに、話は落ちてしまつたやうである。ところで放翁は、かくも問題のある楓橋にやつて来て、七年前と同じ半夜の鐘を聞いたと詠じてゐる。これは果して胡応麟が云ふやうに、事実の如何を顧みない単なる言葉の調子であらうか。否、放翁の作詩の態度は断じてさういふ解釈を許さない。果して彼の晩年の随筆集たる老学庵筆記を見ると、巻十の中で、彼は次の如く書いてゐる。「張継楓橋夜泊の詩に云ふ、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到客船と。欧陽公之を嘲りて云ふ、句は則ち佳なるも、夜半は是れ打鐘の時にあらざるを如何せんと。後人又た謂ふ、ただ蘇州にのみ半夜の鐘ありしなりと。皆な非なり。按ずるに于※[#「業+おおざと」、第3水準1−92−83]褒中即事の詩に云ふ、遠鐘半夜に来り、明月千家に入ると。皇甫冉、秋夜会稽の厳維の宅に宿する詩に云ふ、秋深うして水に臨むの月、夜|半《なか》ばにして山を隔つるの鐘と。此れ豈に亦た蘇州の詩ならんや。恐らく唐時の僧寺には自ら夜半の鐘ありしなり。京都街鼓、今尚ほ廃す。後生、唐の詩文を読み街鼓に及ぶ者、往々にして茫然知る能はず。況《いは》んや僧寺夜半の鐘をや」。これが「飽くまで識る三千余歳の事」と自ら詠じたことのある放翁の見解である。さてこそ彼は楓橋に宿し、唐の昔に鳴り響いたであらう夜半の鐘の音を偲んで、客枕依然半夜鐘と詠じたのである。もちろん実際に鐘の声を聞いたのではない、しかしまた彼の詩魂は、唐詩に伝はる殷殷たる夜半の鐘声を、実際に聴いたのでもある。
 当時彼は、※[#「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1−15−72]州の通判に任ぜられたため、乾道六年(西暦一一七〇年)、四十六歳の時、郷里の鏡湖(今の浙江省の紹興に近きところ)を立ち、揚子江を遡つて、蜀の※[#「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1−15−72]州(今の四川省の東境、日本の飛行機が近頃爆撃を加へたと伝へられてゐる今の奉節)まで、長い旅をした。その旅は、乾道六年閏五月十八日から十月二十七日まで、殆ど半年かかつた。この詩は六月十日、かかる千里の旅を前にして、蘇州の楓橋寺前に宿した折の作である。彼の入蜀記を見ると、その日の条下に、「楓橋寺前に宿す、唐人《たうひと》の謂ふ所の夜半の鐘声客船に到るもの」としてある。当時彼がこの夜半の鐘声を偲んだことは、極めて明白である。その鐘声は、物理的にこそ今は亡びて居たけれども、詩の世界では、客枕依然半夜の鐘であつた。かく云へば、話は、先きの胡応麟の説に似て来るやうだが、しかしそこには実に千里の差がある。
 なほ張継の詩については、私は放翁詩話と題する別の草稿の中でも、若干のことを書き誌しておいた。

 (追記) 高青邱にもまた楓橋夜泊の詩がある。それはかう云ふのだ。
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烏啼霜月夜寥寥
囘首離城尚未遙

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