愛するところ
迢迢雲外鐘  迢々たる雲外の鐘
一日聾一日  一日は一日より聾し
清音又難逢  清音又た逢ひ難し
今夜天如洗  今夜《こよひ》天洗ふが如く
風露秋意濃  風露秋意濃し
仰月臥南※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]  月を仰いで南※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]《ナンイウ》に臥し
一牀聽砌蛩  一牀砌蛩を聴く
[#地から1字上げ]九月二十五日

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殺人犯人
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私が小菅刑務所に居た頃、私の監房がそれに属してゐた独居監房一翼の雑役夫をしてゐた受刑者は、癲癇もちの吃で、再犯の殺人犯人であつた。それが再びこの娑婆に出て居る筈はないのだが、今日銭湯で湯舟にはいらうとする途端に、その男がずんぶり湯につかつて居るのを見て、私はほんとにびつくりした。もちろん人違ひだつたのだが
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ともに居し殺人犯人にふと出会ひ人違ひかと湯舟にはいる
ゆくりかに殺人犯人の顔を見て人違ひなるに胸をなでけり[#地から1字上げ]九月二十七日

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漸く無為にして過ごす日あり
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いつしかにおいにけらしなふみもみであきのひとひをつくねんとしてをり[#地から1字上げ]九月二十七日

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菅原昌人君、余に勧むるに斎藤茂吉の歌を読むべきを以てす。よりて知人光田氏より次ぎ次ぎに茂吉歌集を借り来りて読む。従来食はず嫌ひにて斎藤氏の歌は見向きもせざりし余、これにより初めて短歌の興味を感じ、爾来日々歌をよむに至れり。しかし斎藤氏の歌にて、思想的内容ある、時事を詠じたるものは、殆ど残らず、依然として甚だ好まず
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うつくしと思ふ歌ありへど吐かむ歌もまたあり茂吉の歌集[#地から1字上げ]十月十日

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ひとりゐ
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留守居して林檎をむきて食ひけるに思ひつきてまた包丁《はうちやう》をとぐ
ひとりゐのものにあきたるゆふぐれを障子にとまる秋の蠅うつ
真白なるダリヤを活けてひとりゐの秋の夕日を窓ごしに見る
ややさむのそらはくもれりかめに活けし大輪のダリヤ白く浮びつ
ひとりゐてオートミールを煮てたうぶ上海の吾子《あこ》おくりし品はも
ややさむのかはたれどきをほのぼのと街《まち》わたりくるふるでらの鐘[#地から1字上げ]以上十月十日、十月十二日

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洛東法然院
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この京にしづけき寺の一つありゆふぐれに来て鐘のねをきく
たかむらにくらくこもれるふるでらの門《もん》にうづくまり山時雨よく
法然の庵《いほ》りし山のこのふところは苔むしてあるか古へゆ今に
枯葉ちる水《み》さびし池に痩せにつつしづまる鯉はやもをなるらしも
葷酒不許入山門と石に彫《ゑ》らし寺の住持は銭好むらし(氷谷博士の墓地、約束後また値上げされし由を聞きて)
むかしよりわれのめでにし寺なれば友のおくつきけふも見に来つ(墓地成りをれど埋骨は未だなりき)
[#地から1字上げ]十月十日、十一日

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故郷を思ひて
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うまきもの食《は》まれえぬ世とかはりつつ母老いませり我も老いゆく
桑の実の赤きを食ひて口そめしをさなあそびの友はいま一人だになし
青淵は浅瀬となりてうろくづも見えずなりぬかふるさとの川
松山をそがひにしたる青淵の鱒住みしかげも浅瀬となりぬか[#地から1字上げ]以上、十月十日より十四日に至る

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母の上洛したまひしは春のさかりなりしに
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たらちめの来ましし春に芽ばえける赤楊《はん》の大樹《ふとき》ははやちりそめにつつ[#地から1字上げ]十月十二日

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閑居雑詠
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堺より真魚《まな》もたらして友来たるこのときつよに冥加をおもへ
老妻《おいづま》とわかちて食《た》べし鯔《ぼら》の味ひととせあまり忘れゐし味
無為にして物もらふことの多ければ経よまぬ僧とおのが身を愧づ
をさなくてなじみし村の山鳩を京のほとりにききつつ住めり
俗客のかへりみせざるしづけさをわびしきものと人おもふらし
二人《ふたり》して京のほとりにかくろひて心しづかに世を終へむとす
大戦《たいせん》の世ともおもほへずわが老《おい》をやしなふやどのこのしづけさは
今更に生きながらへて何かせむものおしみするわれをさげしむ
秋の蚊の人をこほしみ寄りけるをたゆたふ間《ま》なくうち殺しけり
千丈の大浪いまに来たるらし板に縋《すが》りて浪を越さばや
明日《あす》よりはたばこやめむと思《も》ひつつ寝《い》ねあさあけに先づ吸ふ「さつき」のけむり
飯《いひ》はめばこころ足らへりわがいのち太古の民の安けさにかも似る
いとけなき頃ゆ人にまさりて脈多し身のさが半ばここに負へるか
如何なれば生きのたづきにふけれるや人のいのちは短きものを
夕日てる雲見つつあれば今も尚ほひとやの窓の空おもはしむ
夕日てる雲見つつあれば海見ざる久《ひさ》になりぬと此の十年《ととせ》を思ふ
うたてしや思ひあがれる人のさまひとときわれもかくてありけむ
客ありて便所よごして帰りしを掃除してゐる妻を見てをり
老いさきのはや短かかる我なればよき思ひ出こそ妻にのこさな
筆とりてあらでは生きて行けぬかと妻さへ我を怪む日のあり[#地から1字上げ]以上、十月十日より十七日に至る

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途上所見
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立ちどまり何をするぞと見てあれば放屁一つして去りゆくおうな
ふち赤き茶寮の旗のひるがへりあまざけひさぐ頃ともなりぬ[#地から1字上げ]十月十日

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わがねがひ
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老い去りて
美しき家を好まず
美しきおみなごを見むと欲《ほ》りせず
ただ美しき詩《し》を
われ朗々として誦するに足る
美しき文《ぶん》を見むことを願ふ
[#地から1字上げ]十月十四日

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草稿「八十四歳の放翁」に題す
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古き言葉をさぐりつつ
遠きこころを知らむとす
すでに老いにし身なればか
新たなる詩は愛《め》でがたし
[#地から1字上げ]十月十四日

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風のまにまに
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詩を読みをればおのづから詩は成り
歌見つつあればおのづから歌生まる
風のまにまに
興のまにまに
きそまたけふ
[#地から1字上げ]十月十五日

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洛東如意ヶ岳を望む
[#ここで字下げ終わり]
老眼重ねて対す如意ヶ岳
或るどんたくの午後の散歩に
衣《ころも》をはらひ杖をふりて
おどろ分けつつわれ近江路に
越えゆきし日は尚ほ若かりしも
人は老い易く山川老いず
ああまなかひの如意ヶ岳
    反歌
膝をいだきわれの居むかふ如意ヶ岳たをりの松のはるけくも見ゆ
行く雲は若うしてわれの越えにける山のたをりを今越ゆる見ゆ[#地から1字上げ]十月十六日

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雲二題
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きそのよは崑崙山をかけ立ちてけさ雨ふらすこの大八洲《おほやしま》
北洋の夢やぶられてけふここに関八州を急ぎすぎゆく
[#地から1字上げ]十月二十四日

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秋の一日
[#ここで字下げ終わり]
こもりゐにをしきひと日と思ひしにかぎろひあへずくもる秋の陽《ひ》
電灯をつくるにはやきひとときを火鉢によりてたばこ吸ひをり
[#地から1字上げ]十月三十一日

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原鼎君に寄す
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蓼科のあかきこぞめの葡萄葉のひろ葉たまひしを思ひ出づる秋[#地から1字上げ]同上

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東京より畑田氏夫妻わざ/\尋ね来られむとす
[#ここで字下げ終わり]
たづねくる友は眼をとぢ汽車ぬちにゆれてあらむと思《も》ひてねにつく
楽しくも遠くゆ友の訪ひくるに勧むべきもの一つなき世ぞ[#地から1字上げ]十月三十一日

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閑居を楽む
[#ここで字下げ終わり]
秋の陽《ひ》をそがひにしつつ灸すうるひまさへありてのどに老いゆく
うつせみは弥陀仏の園《その》に遊ぶかと思ほゆるまでこころなぎをり
老いぬれば軽き机ぞよろしけれ陽《ひ》にあたらまくあさゆふにうつす
くさぐさの世のつねならぬ夢も見つあといくとせのうつつともよし
かへりみば六十四歳の今のさがわがをさなくてありし日のごと
かにかくに力のかぎり咲きいでて咲きみだれつつ衰ふらむか
夢となりぬや栗毛の馬に鞭あつるもののふがにも京を立ちしが(居を東京に移せしは昭和五年の一月の初なり、今や早く十三年前の夢と化しぬ)
あたたかにすぐるは分に越えむかと寒さにたへてうすぎしてをり
紙のへに白髪《しらが》落ちくるしきりなりみんなみのまどにふみよみをれば
四坪《よつぼ》にも足らはぬ庭のすみながら赤ばみてゆく南天の実《み》あはれ
うす寒く曇れる秋のゆふぐれを碁譜ならべつつ人をこほしむ
書《しょ》にあきぬ碁をうつ友の今来なば嬉しからむか秋のゆうぐれ
朝な夕なをしものなべてまうほりて貧しかる身はすくよかに生く[#地から1字上げ]十一月三日、四日

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生日
[#ここで字下げ終わり]
いとけなきわれをすずろに愛《かな》しみしおほちちのとしいまこえむとす
手錠して荒川の獄に移されし秋雨《あきさめ》のけふぞ忘らえなくに
[#地から1字上げ]十月二十日

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清水寺
[#ここで字下げ終わり]
南洲の詩碑仰がむとけふもまた五条阪を登りゆくなり
いくたびかわれここに憩ふなど思ひ忠僕茶屋にあまざけをのむ
むかしわれ父にはべりて詣うでたる清水寺に曼珠沙華咲くも
名に負へる乙羽《おとば》ヶ滝のまづしさにほほゑみたまひし父の面影[#地から1字上げ]十一月三日

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大原に遊ぶ 聯作三十二首
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妻子らと八瀬大原の秋見むと朝晴れのけふ家をつれたつ
ことし春ははと遊びし八瀬にまた秋のなかばを吾子《あこ》につれらる
バスに乗り映画見るがに動きゆく山に見はりて大原に入る
大きなる庭石曳きて京に入る牛にも逢ひつ大原の野路《のぢ》
大原はなべて美し山くまの屋なみ美し柿の実赤く
名も知らぬ大樹《ふとき》黄いろくもみぢして造れるがごと山々に立つ
いかにして君に伝へむ大原の身にしむまでにたたふる秋の気
大原や時雨に逢ひて傘買ひて畑中の路に雨の山見る
しぐれたるあとのおちばの色のはえ踏むを惜みて谿の道ゆく
もみぢ葉は落ちしたまゆら掌《て》にとりて濃染《こぞめ》のさやけ賞づべかりけり
もみぢ葉のこぞめの色の色こきを君に見せなと拾い来りつ
たたなはる山のおくがの雨空に雪かと見ゆる比良の山膚《やまはだ》
まなかひの峰に虹たち入日さし時雨の雲は西より晴れ来《く》
黄にみのり半ばはすでに刈られある稲田のくろを尼かへりくる
いのちありて名のみ聞きゐし大原の寂光院をけふぞ見にこし
のぼりきて院のみぎりにわれ立てばかけひの音のさやに聞こゆる
ひるくらきみ堂のうちを案内《あない》して若き尼僧の声もさやけき
あないせる尼僧のともすらふそくのゆらぐほのほにうかぶ御《おん》像
ひとたびはをさなみかどのおんあとをうみにいりましし建礼門院
思ひ見れば寿永の涙たまなしてなほこの堂ぬちにおちゐたりけむ
荒波のとよむにも似て松風の吹きすさぶ夜の夢の浮橋
深山辺《みやまべ》に豊明《とよのあかり》をいやとほみ人老いにつつ月にみたたす
ここにしてつひのやどりとねむりたる人のいのちはただ詩のごとし
合掌の阿波の局の木像は安徳の御衣《ぎよい》を纏ふと云ふも
石仏《いしぶつ》は三万の小《こ》ほとけむねにいだきもだしつつ立たす今に八百年
赤黄青|三段《みきだ》に染まるかへるでの濃染《こぞめ》の色は見しこともなし
いにしへを見つつ偲《しぬ》べと枯葉ちる池のほとりの石蕗《つはぶき》の花
京になきうまきお萩と門前《もんぜん》
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