ら1字上げ]四月十九日

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京洛之新緑、美無加、散歩途上口占
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東山春色絶纖塵  東山の春色纖塵を絶つ、
楊柳青青楓葉新  楊柳青々楓葉新たなり。
老木殷勤有誘我  老木殷勤に我を誘ふあり、
枉爲樹下石牀人  枉げて樹下石牀の人となる。
[#地から1字上げ]四月二十四日

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壽岳文章君、見贈新筍、味頗美、遂得詩三首
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家貧身初健  家貧にして身初めて健かに、
偏愛野蔬春  偏に愛す野蔬の春。
嫩筍如黄犢  嫩筍黄犢の如く、
旨甘抵八珍  旨甘八珍に抵《あた》る。
  又
老脱利名累  老いて利名の累を脱《まぬ》かれ、
纔餘飮食慾  纔に余ます飲食の慾。
春光竹菌肥  春光竹菌肥え、
一飽心君足  一飽心君足る。
  又
身健縁心靜  身の健かなるは心の静かなるにより、
食甘爲氣平  食の甘きは気の平かなるが為めなり。
竹萌頻入膳  竹萌頻りに膳に入る、
美敵五侯鯖  美、五侯の鯖に敵せり。
[#地から1字上げ]四月二十五日

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頃日痩躯頗健、一日有一日娯、朝夕三囘
之蔬食、甘味抵八珍
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老翁一日娯  老翁一日の娯、
鼓舌嘉粗飯  舌を鼓して粗飯を嘉《たのし》む。
天憐此小儒  天は此の小儒を憐み、
爲許閑人健  為めに許す閑人の健。
[#地から1字上げ]四月二十六日

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頃日賣舊藏『國富論』、換漢籍、樂不少
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蠹書聊得買  蠹書聊か買ふことを得、
青帙散空牀  青帙空牀に散ず。
誰知貧巷裡  誰か知る貧巷の裡、
亦有白雲郷  また白雲の郷あらむとは。
[#地から1字上げ]四月二十八日

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放翁
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日夕親詩書、廣讀諸家之詩、然遂最愛劍南詩稾
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邂逅蠹書裡  邂逅す蠹書の裡、
詩人陸放翁  詩人陸放翁。
抱情歌扇月  情を抱く歌扇の月、
忘世酒旗風  世を忘る酒旗の風。
伏櫪千里驥  櫪に伏す千里の驥、
蹴空九秋鴻  空を蹴る九秋の鴻。
愛吟長不飽  愛吟|長《とこし》へに飽かず、
閑暮樂無窮  閑暮楽み窮る無し。
[#地から1字上げ]五月七日

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身猶活
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今朝、旧友河田氷谷博士、永眠の電報来たる。博士は余より若きこと五歳、平生健康にして、未だ曾て自ら死を期せず、且つ臨終最後の瞬間に至るまで必ず生き抜かんと努力し続けられたるものの如し。しかるに夢にも後死を期せざりし余、却て今、君の死を弔ふ。自然に一詩成る
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囘首萬里程  首《かうべ》を回らせば万里の程、
自怪身猶活  みづから怪む身の猶ほ活くるを。
心願百縁成  心願百縁成り、
痩涓唯待渇  痩涓唯だ渇《か》るを待つ。
[#地から1字上げ]五月二十一日

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弔氷谷博士
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  詩一首 詞二首
今春三月二十二日、與河田氷谷博士相會於洛北一乘寺之遂志軒、因主人金子君之發意、三人相並而坐南窓之簷下、爲記念撮影了、更相携遊于八瀬、受博士之饗應於平八茶屋、對山臨溪、清談半日、席上余謂博士曰、花易散人易老、君亦須及早少省事、共吾等樂晩年之間適也、君可之且言、昨日偶臨于大學同期卒業生之會合、當年之同窓、今既半歸北※[#「氓のへん+おおざと」、第3水準1−92−61]之塵、從古人祝還暦、吾於今覺非無其故、當時君之靜音、今尚殘存於余耳朶、誰料越而纔旬日、君忽獲病而遂不起、五月二十一日早曉爲千載不歸之客、於是吾等三人之寫眞、獨爲君空成最後之撮影、君亦不待還暦而長逝焉、眞如一夢、乃悵然賦
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遲日花間水閣游  遅日花間の水閣に游び、
同君流水落花愁  君と流水落花の愁を同《とも》にす。
誰料春徂君亦逝  誰か料らむ春徂いて君亦た逝かむとは、
衰翁獨立夕陽樓  衰翁独り立つ夕陽の樓。
  又  樂府憶江南調
同遊地      同《とも》に遊びし地、
寂寞憶君時    寂寞君を憶ふの時、
孤影龍鐘空曳杖  孤影竜鐘として空く杖を曳けば、
百花落盡一溪遺  百花落ち尽して一渓遺り、
水嗚咽風悲    水嗚咽して風悲めり。
  又  雙調憶江南
春已逝      春已に逝き、
花落割愁腸    花落ちて愁腸を割《さ》く。
人易老山川不老  人老い易く山川老いず、
依稀山紫水明郷  依稀たり山紫水明の郷。
悲舊坐茅堂」   旧を悲んで茅堂に坐す。」
交契久      交契久し、
三十五星霜    三十五星霜。
君未嘗思※[#「歹+且」、第3水準1−86−38]忽逝  君未だ嘗て※[#「歹+且」、第3水準1−86−38]を思はずして忽ち逝き、
待終我卻弔遺芳  終りを待てる我、却て遺芳を弔ふ。
雨暗暮江柳[#「柳」に「〔楊〕」の注記]    雨は暗し暮江の柳[#「柳」に「〔楊〕」の注記]。
[#地から1字上げ]六月六日、六月十日、六月二十六日、定稿

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閑中好
[#ここで字下げ終わり]
閑中好    閑中好し
青帙散空牀  青帙空牀に散ず、
此趣人無會  此の趣、人の会する無し、
白雲環草堂  白雲草堂を環《めぐ》る。
[#地から1字上げ]六月十日

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夏日戯に作る
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何を食べてもこんなにおいしいものが
またとあらうかと思うて食べる。
大概は帙をひもといて古人の詩を読んで暮らす。
倦み来りて茗をすすり疲れ来らば枕に横たはる。
家はせまけれど風南北に通じ、
銭を用ひずして涼風至る。
こんなよい気持が人の身に
またとあらうかと疑はれる。
生きてゐる甲斐ありとつくづく思ふ。
しかしまたいつ死んでもよいと思ふ。
生きてゐてもよく、死んで行つてもよい、
これ以上の境涯はまたと世になからうではないか。
[#地から1字上げ]六月十三日

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夏涼
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茅屋階下雖不過三間、夏來而頗涼
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臥月吟詩草屋隈  月に臥して詩を吟ず草屋の隈、
北窗南※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]向風開  北窓南※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]、風に向つて開く。
清風明月何無主  清風明月何ぞ主なからむ、
嘗賭一身贏得來  嘗て一身を賭して贏ち得来たる。
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(東坡前赤壁賦、「天地之間、物各有主、惟江上之清風與山間之明月、取之無禁、用之不竭。」)
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[#地から1字上げ]六月十四日

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菩薩蠻
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清風明月吟詩臥  清風明月、詩を吟じて臥す。
誰言風月元無價  誰か言ふ風月元と価なしと。
踏怒浪狂雷    怒浪狂雷を踏み、
抛身換得來」   身を抛つて換へ得来たる。」
屋如江上槎    屋は江上の槎の如く、
身是山間蝸    身は是れ山間の蝸。
紫陌九衢傍    紫陌九衢の傍、
獨棲白雲郷    独り棲む白雲の郷。
[#地から1字上げ]六月十四日

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草廬
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草廬何所樂  草廬何の楽むところぞ、
春晩賦詩頻  春|晩《く》れて詩を賦すること頻りなり。
小院無窮興  小院窮りなきの興、
今朝竹葉新  今朝竹葉新たなり。
[#地から1字上げ]六月十四日

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六月十九日夢
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六月十九日夜、夢に、再び安逸の生活を脱せざるを得ざる必要に迫まられ、また家人と分れ、詩書とも分れざるを得ざるかと思ひ、心せつなく、如何にせば宜しからんと迷ひ居るうち、夢始めて醒め、暫くは果して夢なりしかと疑ふほどなりき
[#ここで字下げ終わり]
欲重臨易水  重ねて易水に臨まんとし、
夢破粟膚生  夢破れて粟膚生ぜり。
嘗臥幽囹月  嘗て幽囹の月に臥す、
至今夢易驚  今に至るも夢驚き易し。
[#地から1字上げ]六月二十一日作

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自畫像(六十四歳夏)
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休怪作魚蠹  怪むを休めよ魚蠹と作《な》れるを、
惟愛古賢詩  惟だ古賢の詩を愛するなり。
茅堂一架帙  茅堂一架の帙、
取次百花披」 取次百花|披《ひら》けり。
天許閑兼健  天は許す閑と健とを、
粗飯甘如飴  粗飯甘きこと飴の如し。
不憂一箪食  憂ひず一箪の食《シ》、
不求五鼎滋」 求めず五鼎の滋。
隨分眼前樂  分に随うて眼前を楽む。
無客獨覆棋  客無くんば独り棊を覆し、
倦來則曳杖  倦み来らば則ち杖を曳いて
間尋古佛祠」 間《カン》に古仏の祠《ほこら》を尋ぬ。
別有身後慰  別に身後を慰むる有り。
扁舟弄潮兒  扁舟弄潮児、
浮沈千重浪  浮沈千重の浪。
聊期月明知」 聊か月明の知るを期す。
故舊哀貧賤  故旧貧賤を哀むも、
貧賤元所期  貧賤元と期する所。
不慙被寛褐  寛褐を被るを慙ぢず、
不羨坐虎皮」 虎皮に坐するを羨まず。
不學嘗糞陋  嘗糞の陋を学ばず、
不顧利名羈  利名の羈を顧みず。
怡怡伍鄰保  怡々として隣保に伍し、
竊喜志未移」 窃に喜ぶ志の未だ移らざるを。
旁人憐寂寞  旁人寂寞を憐むも、
寂寞何足悲  寂寞何ぞ悲むに足らむ。
千里少年夢  千里少年の夢、
愛靜老馬疲」 静を愛して老馬疲る。
招涼北窗下  涼を招く北窓のもと、
不妨庭無池  妨げず庭に池なきを。
疎鐘坐暮雨  疎鐘、暮雨に坐す、
百年最好時」 百年最も好き時。
心願已盡滿  心願已に尽く満ち、
且留悴竹姿  且《しば》らく留む悴竹の姿。
不辭蒙霜雪  霜雪を蒙るを辞せず、
信風兩三枝」 風に信《まか》す両三枝。
悠悠遲暮意  悠々たり遅暮の意、
無悔半生癡  悔ゆるなし半生の痴。
眞箇樂天叟  真箇楽天の叟、
舍予復有誰  予《われ》を舎《お》いて復た誰か有る。
[#地から1字上げ]七月九日定稿

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途上所見
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夕陽將欲沒  夕陽将に没せんとして、
紅染紫霄時  紅、紫霄を染むる時、
弄色西山好  色を弄して西山好し、
乾坤露玉肌  乾坤玉肌を露《あら》はす。
[#地から1字上げ]七月十日

[#ここから2字下げ]
世事無知
[#ここで字下げ終わり]
生民救死不遑時  生民死を救うて遑あらざる時、
何意悠悠獨賦詩  何の意ぞ悠々独り詩を賦せる。
休怪衰翁六十四  怪むを休めよ衰翁六十四、
耳聾世事久無知  耳聾して世事久しく知る無し。
[#地から1字上げ]七月十五日

[#ここから4字下げ]
明月
[#ここで字下げ終わり]
大空に星一つなく月まろし酒のまぬ身もたかどのを恋ふ
まんまるな月のあまりに近ければたかどのに来てきだはしをよづ
[#ここから4字下げ]
老い去つて漸く寒暑を厭ふ
[#ここで字下げ終わり]
あつき日は秋をまちわびさむき日は春をこひつつ老いゆく身となり[#地から1字上げ]七月二十九日

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詩集『一点鐘』に題す
[#ここで字下げ終わり]
近き頃世に出でし
人の詩集を買ひ来て読む
手すりの和紙に木目のこり
活字の墨も匂ふばかりぞ
短詩四十余章
余白ゆたかに占め得て
庭ひろき深院に
なごみて貴人の住めるに似たり
そねみにかよふ心ありて
いねがての夏の夜の
はかなしや夢のとだへに
詩人《うたびと》ならぬ身をこそ恨め
[#地から1字上げ]八月九日

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菲才をなげく
[#ここで字下げ終わり]
心願すでにことごとく満ちてと
みづからは詩《シ》にも書きつれ
ただ一つのみ願ひ遂げ得で
いつしかにわれ世をし去るらむ
あやしくもたへなりいにし世の詩《うた》はも
そねみに似たる心ありて
蕭条たるこの垂老の秋の日に
ひとりわれ
骨を撫でつつ菲才をなげかふ
[#地から1字上げ]八月十三日定

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中秋
[#ここで字下げ終わり]
平生最所愛  平生最も
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