宛として萍の水に在るが如し、
從風西又東 風に従うて西又た東。
此是鄙夫事 此は是れ鄙夫の事、
學者那得同 学者那んすれぞ同するを得ん。
丈夫苟志學 丈夫苟くも学に志す、
指心誓蒼穹 心を指して蒼穹に誓ふ。
惟要一無愧 惟だ一の愧なきを要す、
何必問窮通 何ぞ必ずしも窮通を問はん。
困睫※[#「夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−82−16]騰老 困睫※[#「夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−82−16]騰の老、
耳聾心未聾 耳聾するも心未だ聾せず。
寄語世上輕薄子 語を寄す世上の軽薄子、
莫擬瞞此避世翁 此の避世の翁を瞞かんと擬する莫れ。
[#地から1字上げ]七月十六日
[#ここから2字下げ]
この邂逅に感謝す
[#ここから4字下げ]
六月下旬、東京保護観察所よりの来状に本づき、謂はゆる左翼文献に属する内外の図書、約六百四十冊を官に収め、身辺殊に寂寞、ただ陸放翁集あり、日夜繙いて倦まず、聊か自ら慰む
[#ここで字下げ終わり]
雨過ぎ風落ちし跡
月さへ照れる山村の
静けさに身を置かんとて、
刑余帝京のかたほとり
一|簷《エン》の蝸廬を賃し、
門を閉ぢ客を謝し得て
住むこと已に五年。
たまたまここにして
一千年前の宋人《ソウひと》
陸放翁に邂逅す。
渭南文集五十巻、
剣南詩稾八十五巻、
詩一万余首。
何の幸ぞ、
砲声坤軸を動かす時、
紅塵万丈の巷に在りて、
ひとりわれ前輩《ゼンパイ》に侍し、
驢に騎《の》りて桟路に
早梅の暁《あかつき》をめで、
兎を焼いて駅亭に
微雪の夜《よる》を愛す。
静かなるかな
こころ太古の民の如し。
[#ここから4字下げ]
焼兎駅亭微雪夜、騎驢桟路早梅時は、放翁の句中、余の愛誦するものの一なり
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]八月二日夜
[#ここから2字下げ]
老いて菲才を歎く
[#ここで字下げ終わり]
われもまた
ありし形見ぞとほつ世に
物のこさんとねがひしも
筆を執ること四十年
ただ文屑《ふみくづ》のみぞうづたかき
墓に入る日も近かからむ
骨をさすりて菲才を歎く
[#ここから4字下げ]
偶※[#二の字点、1−2−22]佐藤春夫の支那歴朝名媛詩鈔、車塵集を読み、七歳の少女なほよく詩を千歳にのこし居るを見、悵然として感あり、この小詩を賦す
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]八月六日
[#ここから2字下げ]
歎菲才
[#ここで字下げ終わり]
半生從筆硯 半生筆硯に従ひ、
贏得楮塵堆 贏ち得たり楮塵の堆。
垂死悲秋客 垂死悲秋の客、
撫骸歎菲才 骸《ほね》を撫《ぶ》して菲才を歎ず。
[#地から1字上げ]十月一日
[#ここから2字下げ]
未嘗沽
[#ここで字下げ終わり]
半生從筆硯 半生筆硯に従ひ、
空作蠹魚奴 空しく蠹魚の奴と作《な》る。
惟喜書百卷 惟だ喜ぶ書百巻、
一字未嘗沽 一字未だ嘗て沽《う》らず。
[#地から1字上げ]十月一日
[#改丁]
閉戸閑詠 第二集(昭和十七年度)
[#改ページ]
昭和十七年(壬午、一九四二年)
[#ここから4字下げ]
昨臘家を携へて移り来り、十二年を距てて再び洛中に住む。
法然院にて
[#ここから5字下げ]
初めてここに詣でしより正に三十有余年を経たり
[#ここで字下げ終わり]
来て見れば三十年《みそとせ》あまり経にしかど昔ながらにゆらぐみあかし
三十年をありしながらの姿にてわれを待ちにしこのしづけさよ
[#ここから4字下げ]
十二年目に見る京都の美しさ、なつかしさは、限りなきものあり
[#ここで字下げ終わり]
知恩院の鐘が鳴るかもなつかしや老いらくの耳にかそけくも聞く
十年あまり放浪の旅ゆかへりて眺むればうつくしきかな叡山の色[#地から1字上げ]一月四日
[#ここから4字下げ]
今はすでに世に用なき敗残の小儒なれども尚ほ時に我を顧る故旧あるを喜びて歌へる
[#ここで字下げ終わり]
世を忘れ世に忘らるる我なれば尋ねて来ます友をうれしむ
世を忘れ世に忘らるる身にしあれば甲斐なき友は自然《じねん》に去《さ》りぬ
[#ここから4字下げ]
十数年ぶりに会ひたる竹田博士、老大家の風格に一段の温厚さを加へられ、真に故旧に会ひたる感を起さしむ
[#ここで字下げ終わり]
放浪の旅ゆかへりて相見ればふるさとに似し君がおもかげ[#地から1字上げ]一月十二日
[#ここから2字下げ]
庚午正月三日、余携家移東京、當時心竊不期
生還、及今十有二年矣、頃日賃得一屋、復還
京洛、日夕毎對舊山河、感慨不少、乃賦一絶
[#ここで字下げ終わり]
當時竊慕古人蹤 当時窃に古人の蹤を慕ひ、
挺一身忘萬戸封 一身を挺して万戸の封を忘る。
豈圖十有餘年後 豈に図らむや十有余年の後、
老眼重對比叡峰 老眼重ねて対す比叡の峰。
[#地から1字上げ]二月四日
[#ここから2字下げ]
正月念七日、欲見青龍老師、訪洛北栖賢禪寺、
僧院闃不見人影、不遇而歸、至後日始知、當
時老師獨坐於深院、仍有此作、寺在上高野水
車町、溪聲頗壯、到處見水車
[#ここで字下げ終わり]
孤※[#「「筑」の「凡」に代えて「おおざと」、第3水準1−89−61]訪僧踏霜行 孤※[#「「筑」の「凡」に代えて「おおざと」、第3水準1−89−61]僧を訪ね霜を踏んで行けば、
空院沈沈草※[#「尸+(彳+喬)」、第4水準2−8−21]横 空院沈沈として草※[#「尸+(彳+喬)」、第4水準2−8−21]横はる。
惟聽青龍長廣舌 惟だ聴く青竜の長広舌、
滿山松籟和溪聲 満山の松籟渓声に和す。
[#ここから4字下げ]
(註)蘇東坡詩、溪聲便是廣長舌、山色豈非清淨身、夜來八萬四千偈、他日如何擧示人
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]二月五日作
[#ここから2字下げ]
閑居
[#ここから4字下げ]
洛中寒徹骨、蟄居擁爐度嚴冬、但日夕聞得東山之疎鐘、是余最所愛
[#ここで字下げ終わり]
閉門何所樂 門を閉ぢて何の楽む所ぞ、
聊倣古賢蹤 聊か古賢の蹤に倣ふ。
青帙悲遺響 青帙遺響を悲み、
紅爐愛暮鐘 紅炉暮鐘を愛す。
家貧飯味甘 家貧にして飯味甘く、
客少友情濃 客|少《まれ》にして友情濃し。
這裡君知不 這裡君知るやいなや、
久忘萬戸封 久しく忘る万戸の封。
[#地から1字上げ]二月十一日
[#ここから2字下げ]
二月二十日訪洛北遂志軒、清談半日、至
黄昏辭去、連日微雪未已、歸途口占
[#ここで字下げ終わり]
閑客間尋遂志軒 閑客間に尋ぬ遂志軒、
黄塵不到似孤村 黄塵到らず孤村に似たり。
煮茗圍爐微雪夕 茗を煮、炉を囲む、微雪の夕《ゆふべ》、
白頭相對脱乾坤 白頭相対して乾坤を忘[#「忘」に「〔ママ〕」の注記]る。
[#地から1字上げ]二月二十三日定
[#ここから2字下げ]
京洛寒徹骨の詩を見たまひて、須磨伯父上わざわざ真綿入りの股引きを郵送され、今また遠くより木炭を持たせて使を寄越されたれば、痛み入りつつ、礼状のはしに書きつけし一首
[#ここで字下げ終わり]
揀得幽居寄老身 幽居を揀び得て老身を寄す、
門前掃迹馬蹄塵 門前迹を掃ふ馬蹄の塵。
莫歎凋零交舊絶 歎ずる莫かれ凋零交旧の絶ゆるを、
雪中恩賚脛衣新 雪中恩賚脛衣新たなり。
[#地から1字上げ]二月二十三日
[#ここから2字下げ]
洛北法然院十韻
[#ここで字下げ終わり]
聞説千年昔 聞くならく千年の昔、
法然此開基 法然ここに基《もとゐ》を開くと。
十載重曳杖 十載重ねて杖を曳き、
三歎聊賦詩 三歎聊か詩を賦す。
都塵未曾到 都塵未だ曾て到らず、
湛寂無加之 湛寂之に加ふるなし。
脩竹掩徑竝 脩竹|径《みち》を掩うて並び、
痩松帶苔※[#「奇+支」、第4水準2−13−65] 痩松苔を帯びて※[#「奇+支」、第4水準2−13−65]《かたむ》く。
池底紅鯉睡 池底 紅鯉眠[#「眠」に「〔ママ〕」の注記]り、
嶺上白雲滋 嶺上白雲滋し。
深院晝猶暗 深院 昼 猶ほ暗く、
佛燈如螢煕 仏灯 蛍の如く煕《ひか》る。
地僻磐韻淨 地僻にして磐韻浄く、
山近月上遲 山近うして月上ぼること遅し。
絶不見人影 絶えて人影を見ず、
時有幽禽窺 時に幽禽の窺ふ有り。
春雨椿自落 春雨 椿 自《おのづか》ら落ち、
秋風梟獨悲 秋風 梟 独り悲む。
酷愛物情靜 酷愛す物情の静かなるを、
斯地希埋屍 斯の地|希《ねがは》くは屍《かばね》を埋めむ。
[#地から1字上げ]二月二十六日定
[#ここから3字下げ]
この詩を作りし時、法然院には墓地なきものと思へり。後に至り、そこには名家の新しき墓若干あり、三井家の墓地またここに移さるる由を聞き、わが屍を埋むるはやはり故郷に如かずと思ふに至れり。昭和十七年十二月三十日追記
[#ここから4字下げ]
竹田博士の招待にて秀と共に初めて大阪文楽座を観る
[#ここで字下げ終わり]
文楽やでく泣きむせぶ春の霄
でく泣くにますらを我も泣きにけり
亡びなむ芸《わざ》とも見えず三業のにほひとけゆく春のゆふぐれ[#地から1字上げ]三月十三日
[#ここから2字下げ]
福井君に寄す
[#ここで字下げ終わり]
また来ませいのち短き人の世の
いのち短き春なれば。
わが住む京はうぐひすの
啼くねも高きみやこなり、
苔美はしきみやこなり、
春たけていざよふ水にちる花の
きよらににほふみやこなり。
けふ見ればさくらはすでににほほゑめり、
咲きはえむ日も近からむ
君をも待たでその花の散らまく惜しも。
[#地から1字上げ]三月二十五日
[#ここから2字下げ]
原鼎君寄書見論王安石詩、因繙臨川集累日、
偶春闌而花滿城
[#ここで字下げ終わり]
投老潛窮巷 老に投じて窮巷に潜み、
姓名世莫知 姓名世の知る莫し。
穿櫺春夜月 櫺を穿つ春夜の月、
誰對半山詩 誰《た》ぞや半山の詩に対す。
[#地から1字上げ]四月一日
[#ここから2字下げ]
南窓小庭纔二坪餘、頃日青苔殆覆盡、余愛其如天鵞絨、毎倦書、下堂而坐石、細抽雜草、遂不留纖塵
[#ここで字下げ終わり]
春霄煙雨後 春霄煙雨の後、
※[#「くさかんむり/出」、第3水準1−90−76]※[#「くさかんむり/出」、第3水準1−90−76]填庭苔 ※[#「くさかんむり/出」、第3水準1−90−76]々たり庭を填むの苔。
慇懃抽雜草 慇懃に雑草を抽き、
間拂緑絨埃 しづかに緑絨の埃を払ふ。
[#地から1字上げ]四月一日
[#ここから2字下げ]
洛中新居適意多
[#ここで字下げ終わり]
此地曾居住 此の地曾て居住、
江山故舊情 江山故旧の情。
行藥鳧堤上 鳧堤のほとりを行薬《かうやく》すれば、
衰楊掃石迎 衰楊石を掃うて迎ふ。
[#地から1字上げ]四月二日
[#ここから2字下げ]
義弟大塚有章、幽囚十年、出獄而未旬日、
忽將赴于滿洲、遂不得會、賦詩遣懷
[#ここで字下げ終わり]
十年曾一別 十年曾て一別、
此日君歸家 此の日君家に帰る。
問更向何處 問ふ更に何れの処にか向ふ。
不堪對落花 落花に対するに耐[#「耐」に「〔ママ〕」の注記]へじ。
[#地から1字上げ]四月五日
[#ここから2字下げ]
添夢龍居士所製此君筆奉呈間宮青龍老師
[#ここで字下げ終わり]
貧居無所有 貧居有る所無し、
聊贈一毛錐 聊か贈る一毛錐。
頼破臥龍夢 頼《さいはひ》に臥竜の夢を破れ、
春光嬾困時 春光嬾困の時。
[#地から1字上げ]四月十四日
[#ここから2字下げ]
訪洛北栖賢禪寺、寺者係青龍老師之創建、
雖師平生言私淑良寛上人、堂宇宏壯、不似
五合庵遠、因呈一絶
[#ここで字下げ終わり]
堂廡輪奐寺門新 堂廡輪奐、寺門新たなり、
師曰求貧不得貧 師曰く貧を求めて貧を得ずと。
淪落小儒聊足慰 淪落の小儒聊か慰むに足る、
暮年自是賤貧身 暮年おのづから是れ賤貧の身。
[#地か
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング