や思ひ残すこともない。
私は自分の微力を歎じるよりも、むしろ
力一ぱい出し切つたことの滿足を感じてゐる。
「ご苦労であつた、もう休んでもよいよ」と
私は自分で自分をいたはる気持である。
牢獄を出て来た後の残生は、
謂はゞ私の生涯の附録だ、
無くてもよし、有つてもよし、
短くてもよし、長くてもまた強ひて差支はない。
私は今自分のからだを自然の敗頽に任せつつ、
衰眼朦朧として
ひとり世の推移のいみじさを楽む。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]四月十三日

[#ここから4字下げ]
雑詠 二首
[#ここで字下げ終わり]
われは歌よみの歌を好まず思ふことありて歌へる歌を好む
閑居して思ふことなく日を経れば天地を忘れまた我をも忘る[#地から1字上げ]四月中旬

[#ここから4字下げ]
野球試合の見物に出掛けたる途上の口吟 二首
[#ここで字下げ終わり]
老いぬともこゝろひからび年経たる紙の花輪に似んはものうし
老いらくの身のはかなさを思へばか今年の春のそゞろに惜まる[#地から1字上げ]五月十九日

[#ここから2字下げ]
近來頻耽碁、賦一詩頒棋友
[#ここで字下げ終わり]
抛筆忘時事  筆を抛ちて時事を忘る、
刑餘蝉蛻身  刑余蝉蛻の身。
懶眠繙帙罕  懶眠帙を繙くこと罕に、
晏坐覆棋頻  晏坐棋を覆すること頻りなり。
有髮亦如僧  髪あるもまた僧の如く、
無錢尚不貧  銭なきもなほ貧ならず。
人嗤生計拙  人は生計の拙なるを嗤ふも、
天惠四時春  天は恵む四時の春。
[#ここから4字下げ]
(此作屡改字句、就中、結句原作曰半生勤苦後天許作閑人。余及今猶迷取捨)
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]六月四日

[#ここから2字下げ]
天涯孤客、不歸郷已十年
[#ここで字下げ終わり]
山村一去路千里  山村一去路千里、
雲間空望阿母家  雲間空しく望む阿母の家。
誤作風塵場裏客  誤つて風塵場裏の客となり、
十年不見故郷花  十年見ず故郷の花。
[#地から1字上げ]六月二十四日

[#ここから2字下げ]
われ今死すとも悔なし
[#ここで字下げ終わり]
われ今死すとも悔なし。
懇ろに近親に感謝し、
厚く良友に感謝し、
普く天地に感謝し了へ、
晏如として我が生を終へなむ。
今われ老いて
幸に高臥自由の身となり、
こゝろに天眷の渥きを感ずること頻りに、
ひとりゐのしゞまには
しば/\かゝる思ひにひたる。
[#地から1字上げ]七月三十一日

[#ここから2字下げ]
余晩歳得樂閑居、雖身住陋巷、心常
似遊山川、乃賦一絶以敍心境云
[#ここで字下げ終わり]
長江隨浪下  長江浪に随うて下る、
無事到心頭  事の心頭に到るなし。
對月披襟臥  月に対し襟を披いて臥せば、
烟波載夢流  烟波夢を載せて流る。
[#地から1字上げ]〔八月二十一日〕

[#ここから2字下げ]
秋思
[#ここで字下げ終わり]
淪落天涯客  淪落天涯の客、
驚秋獨悵然  秋に驚いて独り悵然たり。
可憐強弩末  憐むべし強弩の末、
空學竹林賢  空く竹林の賢を学ぶ。
[#地から1字上げ]九月六日

[#ここから2字下げ]
寄信州蓼科高原滯在中之原君
[#ここで字下げ終わり]
地僻無行客  地僻にして行客なく、
秋闌山徑清  秋闌にして山径清し。
雨餘逢月色  雨余月色に逢はば、
高趣畫難成  高趣画けども成り難からむ。
[#地から1字上げ]十月八日

[#ここから2字下げ]
時勢の急に押されて悪性の変質者盛んに
輩出す、憤慨の余り窃に一詩を賦す
[#ここで字下げ終わり]
言ふべくんば真実を語るべし、
言ふを得ざれば黙するに如かず。
腹にもなきことを
大声挙げて説教する宗教家たち。
眞理の前に叩頭する代りに、
権力者の脚下に拝跪する学者たち。
身を反動の陣営に置き、
ただ口先だけで、
進歩的に見ゆる意見を
吐き散らしてゐる文筆家たち。
これら滔々たる世間の軽薄児、
時流を趁うて趨ること
譬へば根なき水草の早瀬に浮ぶが如く、
権勢に阿附すること
譬へば蟻の甘きにつくが如し。
たとひ一時の便利身を守るに足るものありとも、
彼等必ずや死後尽く地獄に入りて極刑を受くべし。
言ふべくんば真実を語るべし、
真実の全貌を語るべし、
言ふを得ざれば黙するに如かず。
[#地から1字上げ]十月九日

[#ここから4字下げ]
芳子洵子をつれ上海に向けて立つ
[#ここで字下げ終わり]
たちてゆく孫に分れて子に分れ跡のさびしさ物をも読まず[#地から1字上げ]十月十日

[#ここから4字下げ]
「祖父河上才一郎」の稿を了へて
[#ここで字下げ終わり]
こもりゐてうまれぬさきのおほちちの畢生《ひつせい》かけばすがためにみゆ
みもしらぬその畢生をかきをへてこひしくなりぬなきおほちちの
をさなごらひとまのいへにとりかこむきみがたまどこ思《も》へばかなしも[#地から1字上げ]十二月十三日

[#ここから4字下げ]
昭和十五年大晦日
[#ここで字下げ終わり]
いまはただひとつのみあるわがねがひいたみなく病みてらくに死なまし
[#改段]

  〔昭和十六年(一九四一〕

[#ここから2字下げ]
谷口博士見贈榧製棋局賦詩謝之
[#ここで字下げ終わり]
憑君爲我畫※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]仙  君に憑む我がために※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]仙を画け、
六十三翁獨樂天  六十三翁ひとり天を楽む。
風骨※[#「月+瞿」、76−下−5]然如病鶴  風骨※[#「月+瞿」、76−下−5]然病鶴の如し、
蠹簡堆中棋局前  蠹簡堆中棋局の前。
[#地から1字上げ]二月十八日

[#ここから2字下げ]
畑田君見誘探梅以詩答之
[#ここで字下げ終わり]
衰翁六十又加三  衰翁六十また三を加ふ、
莫怪春來尚蟄庵  怪むなかれ春来尚庵にひそむを。
病骨支離難耐歩  病骨支離歩に耐へがたし、
間窗枕帙夢江南  間窓帙を枕として江南を夢む。
[#地から1字上げ]三月四日

[#ここから2字下げ]
相澤秀一君之任鴻城
[#ここで字下げ終わり]
春來無客到  春来客の到る無く、
棋局自生塵  棋局おのづから塵を生ず。
君去風流絶  君去つて風流絶え、
間居空戀人  間居して空しく人を恋ふ。
[#地から1字上げ]三月九日

[#ここから2字下げ]
時事
[#ここで字下げ終わり]
※[#「走にょう+(咨−口)」、77−上−8]※[#「走にょう+且」、第4水準2−89−22]逡次暮江前  ※[#「走にょう+(咨−口)」、77−上−8]※[#「走にょう+且」、第4水準2−89−22]逡次、暮江の前、
宛似萬延元治年  宛として万延元治の年に似たり。
野老不關軍國事  野老関せず軍国の事、
粗飯一飽抱琴眠  粗飯一飽、琴を抱いて眠る。
[#地から1字上げ]三月十一日

[#ここから2字下げ]
圍碁
[#ここで字下げ終わり]
厭盡紛紛世上爭  厭尽す紛々たる世上の争、
但留客好對楸※[#「木+怦のつくり」、第4水準2−14−44]  但だ客を留め好んで楸※[#「木+怦のつくり」、第4水準2−14−44]に対す、
不問客從何處到  問はず客の何処より到るかを、
堪嗤衰翁索居情  嗤ふに堪へたり衰翁索居の情。
[#地から1字上げ]三月十二日

[#ここから2字下げ]
偶成(對鏡似田夫)
[#ここで字下げ終わり]
形容枯槁眼※[#「目+多」、第4水準2−81−94]昏  形容枯槁、眼《まなこ》※[#「目+多」、第4水準2−81−94]昏《シコン》、
眉宇纔存積憤痕  眉宇纔に存す積憤の痕。
心如老馬雖知路  心は老馬の如く路を知ると雖も、
身似病蛙不耐奔  身は病蛙に似て奔るに耐へず。
[#ここから4字下げ]
轉句借放翁詩
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]三月十四日

[#ここから2字下げ]
交情囘首薄如煙
[#ここで字下げ終わり]
虚名泯去老殘身  虚名泯び去る老残の身、
始見人情眞不眞  始めて人情の真と不真を見る。
昨夜燈下交膝客  昨夜灯下交膝の客、
今朝忽作路傍人  今朝忽ち路傍の人と作《な》る。
[#地から1字上げ]三月二十四日

[#ここから2字下げ]
辛巳初春、殘寒未去時、氷谷博士遊于志賀
高原、見寄殘雪句、(残雪や浮世の風の来
ぬあたり、)賦詩乞正
[#ここで字下げ終わり]
當年同是讀書人  当年同じく是れ読書の人、
今日獨空歎老身  今日独り空しく老身を歎ず。
高原踏雪君搜句  高原雪を踏んで君は句を捜め、
陋巷擁爐我待春  陋巷炉を擁して我は春を待つ。
[#地から1字上げ]四月九日

[#ここから2字下げ]
偶成
[#ここで字下げ終わり]
身攀錦江再生縁  身は攀づ錦江再生の縁、
心似香山放妓年  心は似たり香山放妓の年。
壯圖如夢落花夕  壮図夢の如し落花の夕、
老殘寒儒誰爲憐  老残の寒儒誰か為めに憐まん。
[#ここから4字下げ]
南洲與僧月照投于錦江灣。白樂天晩年住于香山自號香山居士。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]四月九日

[#ここから2字下げ]
原鼎君見贈陸放翁全集、喜甚、賦詩謝之
[#ここで字下げ終わり]
放翁詩萬首  放翁、詩、万首、
一首直千金  一首千金に直《あたひ》す。
擧付斯茅宇  挙げて斯の茅宇に付し、
教誇月色深  月色の深きを誇らしむ。
[#地から1字上げ]四月二十四日

[#ここから2字下げ]
心平
[#ここで字下げ終わり]
心平無厭夢  心平かにして厭夢なく、
身靜有良朋  身静かにして良朋あり。
愛此殘春夕  此の残春の夕を愛し、
悠然待月昇  悠然として月の昇るを待つ。
[#地から1字上げ]五月十一日

[#ここから2字下げ]
春色
[#ここで字下げ終わり]
仰天天碧如海  天《そら》を仰げば天《そら》碧うして海の如く、
看雲雲白似波  雲を看れば雲白うして波に似たり。
光滿地花滿樹  光地に満ち花樹に満つ、
愁居奈春色何  愁ひ居らば春色を奈何。
[#地から1字上げ]六月

[#ここから2字下げ]
性本愛文
[#ここで字下げ終わり]
性本愛文宿世因  性もと文を愛す宿世の因、
錯提長劍草爲茵  錯つて長剣を提《ひつさ》げ草を茵と為す。
刑餘一枕蠹書裡  刑余 一枕 蠹書の裡、
造物還吾風月身  造物 吾に還す 風月の身。
[#地から1字上げ]七月三日

[#ここから2字下げ]
戰雲滿乾坤
[#ここで字下げ終わり]
心已久忘世事  心すでに久しく世事を忘れ、
姓名又人無知  姓名又た人の知る無し。
獨弄詩蝸廬底  独り詩を弄す蝸廬の底、
戰雲滿乾坤時  戦雲 乾坤に満つるの時。
[#地から1字上げ]七月二日

[#ここから2字下げ]
雨日感舊
[#ここから4字下げ]
余以癸酉十月二十日余之生日、入荒川東畔之小菅監獄。此日寒風吹雨、雨如雪。囚衣甚薄、粟脱膚。至今猶不能忘。一夢已八年、又賦七絶。此詩起承共借放翁句
[#ここで字下げ終わり]
蕭蕭風雨小江秋  蕭々たる風雨、小江の秋、
不是愁人亦合愁  是れ愁人ならざるも亦た愁ふべし。
至今猶想荒川雨  今に至るも猶ほ想ふ荒川の雨、
手械東過白首囚  手械 東に過ぐ 白首の囚。
[#地から1字上げ]七月六日

[#ここから2字下げ]
夏日閑居
[#ここで字下げ終わり]
砲火動坤軸  砲火坤軸を動かす、
蝸廬何所營  蝸廬何の営む所ぞ。
迎風撒紙※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]  風を迎へて紙※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]を撒《はら》ひ、
逐清搬楸※[#「木+怦のつくり」、第4水準2−14−44]  清を逐うて楸※[#「木+怦のつくり」、第4水準2−14−44]を搬《うつ》す。
一枕蠹書裡  一枕蠹書の裡、
千山煙雨情  千山煙雨の情。
我今死無悔  我 今 死すとも悔なし、
那又妨長生  那ぞ又た長生を妨げん。
[#地から1字上げ]七月十日

[#ここから2字下げ]
遣懷
[#ここで字下げ終わり]
宛如萍在水
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