又秋に会ふ、
老殘孤客倚門愁 老残の孤客門に倚りて愁ふ。
惆悵我歸君未復 惆悵す我帰りしも君未だかへらず、
不知與誰話曾遊 知らず誰と共にか曾遊を話せむ。
[#地から1字上げ]八月二十日及二十四日
[#ここから4字下げ]
貧居小景 二首
[#ここで字下げ終わり]
月夜よし夜ふけて通る人のあり道踏む音の枕にひゞく
客ありて二階に通り窓近き隣の青葉ほめて帰れり
[#地から1字上げ]八月二十四日
[#ここから4字下げ]
出獄後一年を経て未だ西下するを得ず
[#ここで字下げ終わり]
はたとせを住みにし京に子等住めりみやこの秋に会ひたきものを[#地から1字上げ]八月二十九日
[#ここから4字下げ]
偶感
[#ここで字下げ終わり]
弱けれどたゞ幸《さち》ありて大木《たいぼく》の倒るゝ蔭にわれ生き残る
(之はからだのことばかりを言ふに非ず)[#地から1字上げ]十月十六日
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天猶活此翁
[#ここから4字下げ]
昭和十三年十月二十日、第五十九回の誕辰を迎へて、五年前の今月今日を想ふ。この日、余初めて小菅刑務所に収容さる。当時雨降りて風強く、薄き囚衣を纏ひし余は、寒さに震えながら、手錠をかけ護送車に載りて、小菅に近き荒川を渡りたり。当時の光景今なほ忘れ難し。乃ち一詩を賦して友人堀江君に贈る。詩中奇書といふは、エドガー・スノウの支那に関する新著のことなり。今日もまた当年の如く雨ふれども、さして寒からず。朝、草花を買ひ来りて書斎におく。夕、家人余がために赤飯をたいてくれる
[#ここで字下げ終わり]
秋風就縛度荒川 秋風縛に就いて荒川を度りしは、
寒雨蕭々五載前 寒雨蕭々たりし五載の前なり。
如今把得奇書坐 如今奇書を把り得て坐せば、
盡日魂飛萬里天 尽日魂は飛ぶ万里の天。
[#地から1字上げ]十月二十日
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落葉
[#ここで字下げ終わり]
われもまた老いにけらしな爛漫と
咲きほこる春の花よりも
今揺落の秋の暮
梢を辞して地にしける
枯葉さま/゛\拾ひ来て
染まれる色を美しと見る
[#地から1字上げ]十一月五日
[#ここから2字下げ]
落葉
[#ここで字下げ終わり]
拾來微細見 拾ひ来りて微細に見れば、
落葉美於花 落葉花よりも美なり。
始識衰殘美 始めて識る衰残の美、
臨風白鬢斜 風に臨んで白鬢斜なり。
[#地から1字上げ]十一月二十日
[#ここから4字下げ]
小林輝次君、出征後すでに一年半になん/\として未だ帰らず、各地に転戦、屡※[#二の字点、1−2−22]危地に臨む。頃日その寄せ来りし小照を見るに、疲労の状歴然たり。体重は五貫目を減ぜしといふ。乃ちその小照を余が日誌中に貼り付け、題するに一首を以てす
[#ここで字下げ終わり]
小さなる写真なれどもたゝかひの深きつかれのまなざしに見ゆ[#地から1字上げ]十二月八日。
[#ここから2字下げ]
何不歸
[#ここで字下げ終わり]
寂々思郷一廃人 寂々として郷を思ふの一廃人、
何留鬧市嘆清貧 何すれぞ鬧市に留まりて清貧を嘆ずるや。
休怪荒村多吠狗 怪むを休めよ荒村吠狗多し、
寄身愛此馬蹄塵 身を寄せて此の馬蹄の塵を愛す。
[#地から1字上げ]十二月九日
[#ここから2字下げ]
歳暮
[#ここで字下げ終わり]
干戈収まらず、
人未だ帰らず、
物価いよ/\高くして歳まさに暮れなんとす。
道にそひたる小さなる家より
たゞラヂオのみ
窓の外まで高々と鳴りひゞく。
無帽の老人
ひとり佇みて杖に倚り
天を仰いで長嘯す。
[#地から1字上げ]十二月二十一日
[#ここから2字下げ]
歳暮憶陣中之小林君、君代劍帶刀、
故第三句用刀字
[#ここで字下げ終わり]
一年將盡夜 一年将に尽きなんとするの夜、
萬里未歸人 万里未だ帰らざるの人。
枕刀眠曠野 刀を枕として曠野に眠り、
驚夢別愁新 夢に驚けば別愁新たなり。
[#地から1字上げ]十二月二十七日
[#改段]
〔昭和十四年(一九三九)〕
[#ここから2字下げ]
六十一吟
[#ここで字下げ終わり]
已躋華壽白頭翁 すでに華寿に躋る白頭の翁、
枕蠹書眠願有終 蠹書を枕として眠り終あらんことを願ふ。
羸駑不與兵戈事 羸駑与からず兵戈の事、
心似山僧萬籟空 心は山僧に似て万籟空し。
[#地から1字上げ]一月元旦
[#ここから2字下げ]
憶亡友吉川泰嶽居士
[#ここで字下げ終わり]
來往風塵學古狂 風塵に来往して古狂を学び、
長忘嶽麓※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蘭芳 長く嶽麓※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蘭の芳を忘る。
刑餘始作無爲叟 刑余始めて無為の叟となり、
空倚危欄望北※[#「氓のへん+おおざと」、第3水準1−92−61] 空しく危欄に倚りて北※[#「氓のへん+おおざと」、第3水準1−92−61]を望む。
[#地から1字上げ]一月八日
[#ここから4字下げ]
津田青楓氏「君と見て久しくなりぬこのころはおとさたもなしいかにしたまふ」の歌を寄せられたるに答ふ
[#ここで字下げ終わり]
朝寝して虫ばみ本をつくろひて茶を飲みをれば一日はすぎぬ
人は老い着物もやれて綿出でぬよごれと見しは綿にてありき[#地から1字上げ]二月二十五日
[#ここから2字下げ]
老來始得閑
[#ここで字下げ終わり]
夙吾號閉戸閑人 夙にわれ閉戸閑人と号す、
晩歳斯名始作眞 晩歳この名始めて真となる。
天以餘生恩此叟 天は余生を以てこの叟をめぐみ、
教爲高臥自由身 高臥自由の身となさしむ。
[#ここから4字下げ]
余三十歳以前已號閉戸閑人以及于今也
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]三月六日
[#ここから2字下げ]
老後無事
[#ここで字下げ終わり]
たとひ力は乏しくも
出し切つたと思ふこゝろの安けさよ。
捨て果てし身の
なほもいのちのあるまゝに、
飢え来ればすなはち食ひ、
渇き来ればすなはち飲み、
疲れ去ればすなはち眠る。
古人いふ無事是れ貴人。
羨む人は世になくも、
われはひとりわれを羨む。
[#地から1字上げ]六月十九日
[#ここから4字下げ]
青楓氏を訪ひて遇はず
[#ここで字下げ終わり]
きかぬベル押しつゝ君が門のとに物乞ふ如く立つはさびしも[#地から1字上げ]〔七月一日〕
[#ここから4字下げ]
出獄の前日を思ひ起して 二首
[#ここで字下げ終わり]
わかれぞと登りて見れば荒川や潮みちぬらし水さかのぼる
または見ぬ庭ぞと思ふ庭の面に真紅のダリヤ咲きてありしか[#地から1字上げ]八月七日
[#ここから4字下げ]
ことし春の彼岸、郷里より取寄せて百日草、風船かづら、花びし草、朝鮮朝顔などの種子を蒔けり。庭狭ければ思ふに任せざれども、この頃いづれもそくばくの花をつけたり。中につき百日草は、祖母の住み給ひし離家の庭前に咲き乱れ居るを、幼時より見慣れ来し花なれば、ひなびたれどもいと懐し
[#ここで字下げ終わり]
ふるさとの種子と思へばなつかしや百日草の庭隅に咲く
[#地から1字上げ]八月七日
[#ここから4字下げ]
獄中の有章君に寄す
[#ここで字下げ終わり]
あはれいかに今夜の月の照れるらむ君ひとり寐《ぬ》る窓の格子に[#地から1字上げ]八月七日
[#ここから4字下げ]
幽居雑詠 三首
[#ここで字下げ終わり]
われもまた深山の奥の苔清水有るか無きかのかそけさに生く
遠寺の鐘にゆられて雛罌粟の風なきゆふべ散るがに死なむ
老い去りて為すこともなく日を経れば明日にも死して悔なしと思ふ[#地から1字上げ]八月七日
[#ここから4字下げ]
重ねて獄中に寄す
[#ここで字下げ終わり]
君も来ず我も行き得ずことしまた秋風吹きてやがて暮れなむ[#地から1字上げ]九月一日
[#ここから4字下げ]
母上より手紙来たる、おさびしき様子にて気になる
[#ここで字下げ終わり]
秋の陽の窓にかたむく書斎にて母思ひつゝさびしみてをり[#地から1字上げ]九月二日
[#ここから4字下げ]
偶成
[#ここで字下げ終わり]
隠れ死ぬ手負の猪《しし》のふしどぞと都のほとりわれいほりせり[#地から1字上げ]九月二十七日
[#ここから2字下げ]
第六十囘誕辰當日敍懷 二首
[#ここで字下げ終わり]
一身痩盡如枯葉 一身痩せ尽して枯葉の如く、
萬境踏來似隔生 万境踏み来りて生を隔つるに似たり。
祇喜囘頭無所悔 たゞ喜ぶ頭《かうべ》をめぐらして悔ゆる所なきを、
誰知這箇野翁情 誰か知る這箇野翁の情。
一身痩盡纔存骨 一身痩せ尽して纔に骨を存し、
萬卷抛來空賦詩 万巻抛ち来りて空しく詩を賦す。
憐爾刑餘垂死叟 爾を憐む刑余垂死の叟、
半生得失待誰知 半生の得失誰を待ちてか知らむ。
[#地から1字上げ]十月二十日
[#ここから4字下げ]
自画像に題す
[#ここで字下げ終わり]
鏡せばおさなくて見しおほははと見まがふばかりわれふけにけり[#地から1字上げ]十二月十四日
[#ここから2字下げ]
余年二十六歳之時、初號千山萬水樓主人、
連載社會主義評論于讀賣新聞紙上、名顯
[#ここで字下げ終わり]
夙號千山萬水樓 夙に号して千山万水楼といふ、
如今草屋似扁舟 如今草屋扁舟に似たり。
相逢莫怪名殊實 相逢うて怪むなかれ名の実と殊なるを、
萬水千山胸底收 万水千山胸底に収む。
[#地から1字上げ]十二月十四日
[#ここから4字下げ]
落葉の自画に題す
[#ここで字下げ終わり]
われもまた落葉に埋る苔清水あるかなきかのかそけさに生く
[#地から1字上げ]十二月二十四日
[#改段]
〔昭和十五年(一九四〇)〕
[#ここから2字下げ]
庚辰元旦
[#ここで字下げ終わり]
六十二翁自在身 六十二翁自在の身、
夢描妙境樂清貧 夢に妙境を描いて清貧を楽む。
幽蘭獨吐深山曲 幽蘭ひとり吐く深山の曲、
殘月斜懸野水濱 残月斜にかゝる野水の浜。
[#地から1字上げ]一月一日
[#ここから4字下げ]
還暦の祝賀を受けし人々へ、自ら描ける落葉の絵に自作の詩歌を題して贈りけるに、菅原昌人君より、風をいたみ彼のも此のもに散る落葉焚かば燃ゆべきしづけさに居り、との歌を寄せられければ、その返しにとて
[#ここで字下げ終わり]
老いらくの身をも落葉にたとへけり焚きて燃ゆべき我ならなくに[#地から1字上げ]一月二十五日
[#ここから2字下げ]
題良寛上人畫像
[#ここで字下げ終わり]
欲學書先須學人 書を學ばんとすれば先づ須らく人を学ぶべし、
形骸相似盡遺眞 形骸相似るも尽く真を遺ふ。
千金求得良寛字 千金求め得良寛の字、
但莫由沽這裡貧 たゞ這裡の貧を沽ふに由なし。
[#地から1字上げ]二月四日
[#ここから2字下げ]
腥風不已
[#ここで字下げ終わり]
戰禍未收時未春 戦禍未だ収まらず時未だ春ならず、
天荒地裂鳥魚瞋 天荒れ地裂けて鳥魚いかる。
何幸潛身殘簡裡 何の幸ぞ身を潜む残簡の裡、
腥風吹屋不吹身 腥風屋を吹けども身を吹かず。
[#地から1字上げ]三月二日
[#ここから4字下げ]
牢愁の思出
[#ここで字下げ終わり]
春の日のくれゆく空のあはれさはひとりながめて牢にゐし時[#地から1字上げ]四月十二日
[#ここから2字下げ]
近頃頻りに疲労を覚え、やがて寝付くべきか
と思ふほどなり、小詩を賦して自ら慰む
[#ここで字下げ終わり]
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弱いからだが段々に弱くなり、
残りの力もいよ/\乏しくなつて来た。
ちよつと人を尋ねても熱を出し、
書を書いても熱を出し、
絵を描いても熱を出し、
碁を打つても熱を出す。
私は私の生涯のすでに終りに近づきつゝあることを感じる。
やがて寝付くやうになるのかも知れない。
だが私は別に悲みもしない。
過去六十年の生涯において、
何の幸ぞ!
私はしたいと思ふこと、せねばならぬと思ふことを、
力相応、思ふ存分にやつて来て、
今は早
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