閉戸閑詠
河上肇
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)深渓《ふかだに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|簷《エン》の
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
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(例)つぎ/\に
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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閉戸閑詠 第一集 起丁丑七月 尽辛巳十月
[#改ページ]
〔昭和十二年(一九三七)〕
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野翁憐稚孫
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余この歳六月十五日初めて小菅刑務所より放たる
[#ここで字下げ終わり]
膝にだく孫の寝顔に見入りつつ庭の葉陰に呼吸ついてをり[#地から1字上げ]七月七日
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花田比露思氏の来訪を受く
[#ここで字下げ終わり]
有りがたや七年ぶりに相見ればふるさとに似し君のおもかげ[#地から1字上げ]七月七日
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獄をいでて 三首
[#ここで字下げ終わり]
獄をいでて街を歩きつ夏の夜の行きかふ人を美しと見し
獄をいでて侘居しをれば訪ねくる人のこゝろはさまざまなりき
ありがたや静かなるゆふべ簡素なる食卓の前に妻子居ならぶ[#地から1字上げ]七月二十日
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谷川温泉雑詠 録七首
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疲れたる身を深渓《ふかだに》に横たへて山隈に残る夏の雪見る
河鹿鳴くと人は云へれど耳老いてせせらぐ水にわれは聞えず
世の塵もこの渓まではよも来まじ窓を披きて峰の月見る
奥山にとめ来し友と語らひて若さ羨む後のさびしさ(宮川実君の来訪を受く)
今は早や為すこともなき身なれども生きながらへて世をば見果てむ
山深きいでゆにひたりいたづらに為すよしもなき身をばいたはる
何事もなさで過ぎねと人は云へ為すこともなくて生きむ術なき[#地から1字上げ]七月末より八月初まで
[#ここから4字下げ]
大塚金之助氏の不幸を悼みて
[#ここで字下げ終わり]
秋のゆふべたらちねの母のみひつぎ送りゆく君を思《も》へばいたまし[#地から1字上げ]十月二十二日
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玉山洗竹詩和訳
[#ここから5字下げ]
原作 世上風塵事何嘗至此間欲窮飛鳥処
洗竹出前山
[#ここで字下げ終わり]
世の塵もこのほとりへはよも来まじ居向ふ山に飛ぶ鳥の跡を見ばやと竹をすかしぬ[#地から1字上げ]十一月二十六日
[#ここから4字下げ]
閑居 二首
[#ここで字下げ終わり]
陽を負ひて障子張りつつ歌思ふ閑居の昼のこののどけさよ
晴れし日を南《みんなみ》の縁に孫だきて陽を浴びをれば飛行機通る
[#地から1字上げ]十二月十一日
[#ここから4字下げ]
獄中の思出
[#ここで字下げ終わり]
茶も飲めず話も出来ず暮れてゆく牢屋の冬はさびしかりしも[#地から1字上げ]十二月十一日
[#ここから4字下げ]
郷里より柚味噌来たる
[#ここで字下げ終わり]
手製《てづく》りて母のたまひしものなればこの柚味噌は拝《をが》みてたうぶ
手製りて送りたまひし柚味噌の焼くる匂ひに今朝もほゝゑむ[#地から1字上げ]十二月二十一日
[#ここから4字下げ]
荻窪天沼の寓居は北裏に広々としたる田畑あり、出獄後の身にとりては、郊外の散歩殊に楽しかりき
[#ここで字下げ終わり]
一杯に陽を浴びし裏の畑道こゝろのまゝに行きては戻る
行き行けば疲れし頃に小橋あり腰をおろして煙草のむべく
畑中の小溝の水は澄みわたりゆらぐ藻草の美しきかな
つぎ/\に拓かれてゆく郊外に取り残されし稲荷のやしろ
畑中の小高き丘の松蔭の洋館のあるじ誰ならむ
藁葺にまじりて白堊の家もあり赤き屋根あり青き屋根あり[#地から1字上げ]十二月二十二日
[#ここから4字下げ]
歳暮 二首
[#ここで字下げ終わり]
老妻を喜ばさんと欲りすれど金もはいらで歳はくれゆく
白粥に柚味噌添へて食《たう》べたり奥歯のいたむ霜寒の朝
[#地から1字上げ]十二月二十七日
[#改段]
〔昭和十三年(一九三八)〕
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刑余安逸を貪る
[#ここで字下げ終わり]
一
膝を伸ばせば足が出る、
首を伸ばせば枕が落ちる、
覗き穴から風はヒュー/\。
ほんたうに冬の夜の
牢屋のベッドはつらかつた。
二
今は毛布の中にくるまり、
真綿の蒲団も柔かに、
湯タンポで脚はホカ/\。
ほんたうに仕合せな
今歳の冬は弥生の春よ。
[#地から1字上げ]一月九日
[#ここから2字下げ]
閑居
[#ここで字下げ終わり]
盡日無人到 尽日人の到るなく、
時紛不復聞 時紛また聞かず。
倚爐思往事 炉に倚りて往事を思ひ、
擧首看浮雲 首《かうべ》を挙げて浮雲を看る。
[#地から1字上げ]一月十三日
[#ここから2字下げ]
閑居 其二
[#ここで字下げ終わり]
爛漫朝眠後 爛漫たる朝眠の後、
携孫就午陽 孫を携へて午陽に就く。
讀書歎菲才 書を読みては菲才を歎じ、
曳杖愛長塘 杖を曳いて長塘を愛す。
紅火煮新茗 紅火新茗を煮、
青燈夢故郷 青灯故郷を夢む。
無爲無病叟 無為無病の叟、
閑裡四分忙 閑裡四分の忙。
[#地から1字上げ]一月十六日
[#ここから2字下げ]
冬夜偶成
[#ここで字下げ終わり]
硯池冰欲雪 硯池氷りて雪ならんとするも、
茵蓐暖於春 茵蓐春よりも暖かなり。
憶去年今夜 憶ふ去年の今夜、
幽窗抱膝身 幽窓膝を抱きし身。
[#地から1字上げ]一月二十一日
[#ここから2字下げ]
莫歎
[#ここで字下げ終わり]
免殞身鋒鏑 身を鋒鏑に殞すを免れ、
偸生寂避名 生を偸み寂として名を避く。
莫傷時事否 傷むことなかれ時事の否なるを、
應水到渠成 水到りて渠成るあるべし。
[#地から1字上げ]一月二十二日
[#ここから2字下げ]
不覺浮沈
[#ここで字下げ終わり]
脱得狂瀾地 狂瀾の地を脱し得て、
隨流游魚心 流に随ふ游魚のこゝろ。
棄躯輕似葉 棄躯軽きこと葉に似、
不復覺浮沈 また浮沈を覚えず。
[#地から1字上げ]一月二十四日
[#ここから2字下げ]
六十初學詩
[#ここで字下げ終わり]
偶會狂瀾咆勃時 偶※[#二の字点、1−2−22]狂瀾咆勃の時に会ひ、
艱難險阻備嘗之 艱難険阻つぶさに之を嘗む。
如今覓得金丹術 如今覓め得たり金丹の術、
六十衰翁初學詩 六十の衰翁初めて詩を学ぶ。
[#地から1字上げ]一月二十六日
[#ここから2字下げ]
良寛上人
[#ここで字下げ終わり]
寂寞空山是故郷 寂寞たる空山これ故郷、
結庵來臥老杉傍 庵を結び来り臥す老杉の傍。
一鉢生涯貧巷吟 一鉢生涯貧巷に吟じ、
千金遺墨富兒藏 千金の遺墨は富児蔵す。
[#地から1字上げ]一月二十九日
[#ここから4字下げ]
初めて尋ね来し人に贈る
[#ここで字下げ終わり]
世を忘れ世に忘られし門の戸を尋ねて君や道迷ひけむ
[#地から1字上げ]一月三十一日
[#ここから4字下げ]
出獄後初めて銭湯に浴す、昭和七年夏以来六年目のことなり
[#ここで字下げ終わり]
久にわれ浴みずありしと歎きつゝ雪ふるゆふべ銭湯にゆく[#地から1字上げ]二月二日
[#ここから4字下げ]
われは歌人の歌を好まず
[#ここで字下げ終わり]
声あげて歌はむとすれど歌ふべき歌一つなき今の日本
[#地から1字上げ]二月五日
[#ここから2字下げ]
不賣文
[#ここで字下げ終わり]
守節遊方外 節を守りて方外に遊び、
甘貧不賣文 貧に甘んじて文を売らず。
仰天無所愧 天を仰いで愧づる所なく、
白眼對青天[#「天」に「〔ママ〕」の注記] 白眼青雲に対す。
[#地から1字上げ]二月五日
[#ここから2字下げ]
天荒
[#ここで字下げ終わり]
人老潛窮巷 人は老いて窮巷に潜み、
天荒未放紅 天は荒れて未だ紅を放たず。
狗吠門前路 狗は吠ゆ門前の路、
雲低萬里空 雲はたる万里の空。
[#地から1字上げ]三月一日
[#ここから4字下げ]
女中急に暇を乞うて帰る、すぐに代りがありさうにもなく、貧居聊か不景気なり
[#ここで字下げ終わり]
さかな屋は間近にあれど市場まで鰯買ひにゆく今の貧しさ
老妻のたゞ所在なく坐しをるに所在なくまた我も居向ふ
[#地から1字上げ]三月三十一日、四月五日
[#ここから4字下げ]
わが家の庭は三坪に足らざれど東隣の桜、枝を伸ばして爛漫たる花をつけたり
[#ここで字下げ終わり]
生籬の上越す隣の桜花けふをさかりと咲きにけるかな
[#ここから4字下げ]
堀江君夫妻来訪、庭に咲きたりとてくさ/゛\の水仙を贈らる
[#ここで字下げ終わり]
水仙は白きぞよけれ青き葉に映る真白の色のゆかしも
[#地から1字上げ]四月十一日
[#ここから2字下げ]
送春
[#ここで字下げ終わり]
盡日看雲坐 尽日雲を看て坐し、
愁人獨送春 愁人ひとり春を送る。
落花絲雨裡 落花糸雨の裡、
塵外刑餘身 塵外刑余の身。
[#地から1字上げ]五月五日
[#ここから2字下げ]
明月
[#ここで字下げ終わり]
難忘幽圄月 忘れがたし幽圄の月。
今夜月光圓 こよひ月光まどかなり。
歩月人迷野 月に歩して人は野に迷ひ、
照人月度天 人を照らして月天をわたる。
[#地から1字上げ]五月十二日
[#ここから4字下げ]
初夏雑詠 二首
[#ここで字下げ終わり]
ねもごろに掃除を終へて茶をすすり香を聞きをる朝のひととき
初夏の四坪の庭にふりそゝぐ雨をながめて茶をすすりをり[#地から1字上げ]五月十八日
[#ここから2字下げ]
頃日頻樂郊外漫歩
[#ここで字下げ終わり]
信歩遊村野 歩にまかせて村野に遊び、
倦來樹下眠 倦み来りて樹下に眠る。
夢覺無人見 夢さめて人の見るなく、
風清百畝田 風は清し百畝の田。
[#地から1字上げ]六月八日
[#ここから4字下げ]
夏亦涼
[#ここで字下げ終わり]
わがこゝろ足らひてあれば四坪にも足らぬ小庭《さには》の蔭もすずしき[#地から1字上げ]六月二十七日
[#ここから2字下げ]
三間屋
[#ここから4字下げ]
余出獄之後、賃得者纔三間之矮屋也、竊審容膝之易安、陶然賦一絶
[#ここで字下げ終わり]
容膝三間屋 膝を容る三間の屋、
曲肱一卷書 肱を曲ぐ一巻の書。
小儒養老處 小儒老を養ふ処、
明月獨侵廬 明月ひとり廬を侵す。
[#地から1字上げ]六月二十九日
[#ここから2字下げ]
室無長物
[#ここで字下げ終わり]
室無長物出無車 室に長物なく出づるに車なし。
擲盡經世萬卷書 擲ち尽す経世万巻の書。
唯有九天明月度 たゞ九天明月の度るあり、
清光含露入吾廬 清光露を含んで吾が廬に入る。
[#地から1字上げ]七月十一日
[#ここから2字下げ]
堀江君見贈花十枝、賦此答謝、結句者
當時之實景也
[#ここで字下げ終わり]
對惠施花欲得詩 恵施の花に対し詩を得んと欲し、
未成旬日曠經時 未だ成らず旬日むなしく時を経。
皺白膩紅凋謝後 皺白膩紅凋謝の後、
壺中開蕾一枝梔 壺中蕾を開く一枝の梔。
[#地から1字上げ]七月二十三日
[#ここから2字下げ]
描竹林孤月之圖、題詩、贈人
[#ここで字下げ終わり]
貧居無所有 貧居有るところなし、
聊贈畫中詩 聊か贈る画中の詩。
竹林孤月度 竹林孤月わたる、
來聽草蟲悲 来り聴け草虫の悲むを。
[#地から1字上げ]八月十日
[#ここから2字下げ]
寄獄中之義弟 二首
[#ここで字下げ終わり]
一千里外十年囚 一千里外十年の囚、
高樹蝉鳴歳復秋 高樹蝉鳴いて歳また秋なり。
處々江山空有待 処々の江山むなしく待つあり、
斷雲斜月爲君愁 断雲斜月君がために愁ふ。
荒苑蝉鳴又會秋 荒苑蝉鳴いて
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