でらの鐘[#地から1字上げ]以上十月十日、十月十二日

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洛東法然院
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この京にしづけき寺の一つありゆふぐれに来て鐘のねをきく
たかむらにくらくこもれるふるでらの門《もん》にうづくまり山時雨よく
法然の庵《いほ》りし山のこのふところは苔むしてあるか古へゆ今に
枯葉ちる水《み》さびし池に痩せにつつしづまる鯉はやもをなるらしも
葷酒不許入山門と石に彫《ゑ》らし寺の住持は銭好むらし(氷谷博士の墓地、約束後また値上げされし由を聞きて)
むかしよりわれのめでにし寺なれば友のおくつきけふも見に来つ(墓地成りをれど埋骨は未だなりき)
[#地から1字上げ]十月十日、十一日

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故郷を思ひて
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うまきもの食《は》まれえぬ世とかはりつつ母老いませり我も老いゆく
桑の実の赤きを食ひて口そめしをさなあそびの友はいま一人だになし
青淵は浅瀬となりてうろくづも見えずなりぬかふるさとの川
松山をそがひにしたる青淵の鱒住みしかげも浅瀬となりぬか[#地から1字上げ]以上、十月十日より十四日に至る

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母の上洛したまひしは春のさかりなりしに
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たらちめの来ましし春に芽ばえける赤楊《はん》の大樹《ふとき》ははやちりそめにつつ[#地から1字上げ]十月十二日

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閑居雑詠
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堺より真魚《まな》もたらして友来たるこのときつよに冥加をおもへ
老妻《おいづま》とわかちて食《た》べし鯔《ぼら》の味ひととせあまり忘れゐし味
無為にして物もらふことの多ければ経よまぬ僧とおのが身を愧づ
をさなくてなじみし村の山鳩を京のほとりにききつつ住めり
俗客のかへりみせざるしづけさをわびしきものと人おもふらし
二人《ふたり》して京のほとりにかくろひて心しづかに世を終へむとす
大戦《たいせん》の世ともおもほへずわが老《おい》をやしなふやどのこのしづけさは
今更に生きながらへて何かせむものおしみするわれをさげしむ
秋の蚊の人をこほしみ寄りけるをたゆたふ間《ま》なくうち殺しけり
千丈の大浪いまに来たるらし板に縋《すが》りて浪を越さばや
明日《あす》よりはたばこやめむと思《も》ひつつ寝《い》ねあさあけに先づ吸ふ「さつき」のけむり
飯《いひ》はめばこころ足らへりわがいのち太古の民の安けさにかも似る
いとけなき頃ゆ人にまさりて脈多し身のさが半ばここに負へるか
如何なれば生きのたづきにふけれるや人のいのちは短きものを
夕日てる雲見つつあれば今も尚ほひとやの窓の空おもはしむ
夕日てる雲見つつあれば海見ざる久《ひさ》になりぬと此の十年《ととせ》を思ふ
うたてしや思ひあがれる人のさまひとときわれもかくてありけむ
客ありて便所よごして帰りしを掃除してゐる妻を見てをり
老いさきのはや短かかる我なればよき思ひ出こそ妻にのこさな
筆とりてあらでは生きて行けぬかと妻さへ我を怪む日のあり[#地から1字上げ]以上、十月十日より十七日に至る

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途上所見
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立ちどまり何をするぞと見てあれば放屁一つして去りゆくおうな
ふち赤き茶寮の旗のひるがへりあまざけひさぐ頃ともなりぬ[#地から1字上げ]十月十日

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わがねがひ
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老い去りて
美しき家を好まず
美しきおみなごを見むと欲《ほ》りせず
ただ美しき詩《し》を
われ朗々として誦するに足る
美しき文《ぶん》を見むことを願ふ
[#地から1字上げ]十月十四日

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草稿「八十四歳の放翁」に題す
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古き言葉をさぐりつつ
遠きこころを知らむとす
すでに老いにし身なればか
新たなる詩は愛《め》でがたし
[#地から1字上げ]十月十四日

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風のまにまに
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詩を読みをればおのづから詩は成り
歌見つつあればおのづから歌生まる
風のまにまに
興のまにまに
きそまたけふ
[#地から1字上げ]十月十五日

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洛東如意ヶ岳を望む
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老眼重ねて対す如意ヶ岳
或るどんたくの午後の散歩に
衣《ころも》をはらひ杖をふりて
おどろ分けつつわれ近江路に
越えゆきし日は尚ほ若かりしも
人は老い易く山川老いず
ああまなかひの如意ヶ岳
    反歌
膝をいだきわれの居むかふ如意ヶ岳たをりの松のはるけくも見ゆ
行く雲は若うしてわれの越えにける山のたをりを今越ゆる見ゆ[#地から1字上げ]十月十六日

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雲二題
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きそのよは崑崙山をかけ立ちてけさ雨ふらすこの大八洲《おほやしま》
北洋の
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