悠然として月の昇るを待つ。
[#地から1字上げ]五月十一日
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春色
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仰天天碧如海 天《そら》を仰げば天《そら》碧うして海の如く、
看雲雲白似波 雲を看れば雲白うして波に似たり。
光滿地花滿樹 光地に満ち花樹に満つ、
愁居奈春色何 愁ひ居らば春色を奈何。
[#地から1字上げ]六月
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性本愛文
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性本愛文宿世因 性もと文を愛す宿世の因、
錯提長劍草爲茵 錯つて長剣を提《ひつさ》げ草を茵と為す。
刑餘一枕蠹書裡 刑余 一枕 蠹書の裡、
造物還吾風月身 造物 吾に還す 風月の身。
[#地から1字上げ]七月三日
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戰雲滿乾坤
[#ここで字下げ終わり]
心已久忘世事 心すでに久しく世事を忘れ、
姓名又人無知 姓名又た人の知る無し。
獨弄詩蝸廬底 独り詩を弄す蝸廬の底、
戰雲滿乾坤時 戦雲 乾坤に満つるの時。
[#地から1字上げ]七月二日
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雨日感舊
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余以癸酉十月二十日余之生日、入荒川東畔之小菅監獄。此日寒風吹雨、雨如雪。囚衣甚薄、粟脱膚。至今猶不能忘。一夢已八年、又賦七絶。此詩起承共借放翁句
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蕭蕭風雨小江秋 蕭々たる風雨、小江の秋、
不是愁人亦合愁 是れ愁人ならざるも亦た愁ふべし。
至今猶想荒川雨 今に至るも猶ほ想ふ荒川の雨、
手械東過白首囚 手械 東に過ぐ 白首の囚。
[#地から1字上げ]七月六日
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夏日閑居
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砲火動坤軸 砲火坤軸を動かす、
蝸廬何所營 蝸廬何の営む所ぞ。
迎風撒紙※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69] 風を迎へて紙※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]を撒《はら》ひ、
逐清搬楸※[#「木+怦のつくり」、第4水準2−14−44] 清を逐うて楸※[#「木+怦のつくり」、第4水準2−14−44]を搬《うつ》す。
一枕蠹書裡 一枕蠹書の裡、
千山煙雨情 千山煙雨の情。
我今死無悔 我 今 死すとも悔なし、
那又妨長生 那ぞ又た長生を妨げん。
[#地から1字上げ]七月十日
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遣懷
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宛如萍在水 宛として萍の水に在るが如し、
從風西又東 風に従うて西又た東。
此是鄙夫事 此は是れ鄙夫の事、
學者那得同 学者那んすれぞ同するを得ん。
丈夫苟志學 丈夫苟くも学に志す、
指心誓蒼穹 心を指して蒼穹に誓ふ。
惟要一無愧 惟だ一の愧なきを要す、
何必問窮通 何ぞ必ずしも窮通を問はん。
困睫※[#「夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−82−16]騰老 困睫※[#「夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−82−16]騰の老、
耳聾心未聾 耳聾するも心未だ聾せず。
寄語世上輕薄子 語を寄す世上の軽薄子、
莫擬瞞此避世翁 此の避世の翁を瞞かんと擬する莫れ。
[#地から1字上げ]七月十六日
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この邂逅に感謝す
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六月下旬、東京保護観察所よりの来状に本づき、謂はゆる左翼文献に属する内外の図書、約六百四十冊を官に収め、身辺殊に寂寞、ただ陸放翁集あり、日夜繙いて倦まず、聊か自ら慰む
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雨過ぎ風落ちし跡
月さへ照れる山村の
静けさに身を置かんとて、
刑余帝京のかたほとり
一|簷《エン》の蝸廬を賃し、
門を閉ぢ客を謝し得て
住むこと已に五年。
たまたまここにして
一千年前の宋人《ソウひと》
陸放翁に邂逅す。
渭南文集五十巻、
剣南詩稾八十五巻、
詩一万余首。
何の幸ぞ、
砲声坤軸を動かす時、
紅塵万丈の巷に在りて、
ひとりわれ前輩《ゼンパイ》に侍し、
驢に騎《の》りて桟路に
早梅の暁《あかつき》をめで、
兎を焼いて駅亭に
微雪の夜《よる》を愛す。
静かなるかな
こころ太古の民の如し。
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焼兎駅亭微雪夜、騎驢桟路早梅時は、放翁の句中、余の愛誦するものの一なり
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[#地から1字上げ]八月二日夜
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老いて菲才を歎く
[#ここで字下げ終わり]
われもまた
ありし形見ぞとほつ世に
物のこさんとねがひしも
筆を執ること四十年
ただ文屑《ふみくづ》のみぞうづたかき
墓に入る日も近かからむ
骨をさすりて菲才を歎く
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偶※[#二の字点、1−2−22]佐藤春夫の支那歴朝名媛詩鈔、車塵集を読み、七歳の少女なほよく詩を千歳にのこし居るを見、悵然として感あり、この小詩を賦す
[#こ
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