のである。ところが改造社は東京から一人の記者を寄越して、この小切手だけは納めておいて貰はぬと困るとのことであつた。いくら私が自分の気持を話して見ても、之をそのまま持つて還つたのでは子供の使みたいで立場がなくなると言ひ張り、相手も亦たどうしても折れなかつた。二人は大きな瀬戸物の火鉢を挟んで話してゐたが、私はたうとう癇癪を起して、それなら仕方がない、この小切手は焼いてしまはふと云つて、火にくべかけると、相手は私の手を抑へて、焼いたところで誰の得にもなりません。さうまで仰しやるのなら之は頂いて帰ります、と云ふことになつた。
 発売禁止後に起つた事件と云へば、ただそれ位のもので、私は別に免官にもならず、休職にもならず、戒告一つ受けるでもなしに終つた。私が愈々辞表を出さねばならなくなつたのは、昭和三年四月のことで、此時からあとまだ七年の間、私は大学教授として無事に生き延びることが出来たのである。(尤も一等の寝台車の方は、この時が最初で、また最後になつた。)

     三

 さて「断片」の齎らした波瀾が以上に終つたのなら、私は別にこの思ひ出を書かなかつたであらう。ところが、当時の私はむろん夢想だもしなかつたことだが、この一文は計らずも一人の青年の頭脳に決定的な影響を与へ、それが公にされてから略ぼ二ヶ年半の後には、かの虎の門事件と称される重大事件が起るに至つた。
 かねてより革命思想を抱き、至尊に向つて危害を加へ、これによつて天皇制に対する疑惑を民衆の心に植ゑ付けんとの、大胆極まる計画を胸に描きつつあつた難波大助は、「断片」を読んで愈※[#二の字点、1−2−22]その最後の決意をなし、それより熱心にその準備行為に取り掛かつたのである。
 彼の郷里は山口県熊毛郡岩田村である。実はその地方の旧家で大地主であり、当時彼の父は衆議院議員に選出されてゐた。故伊藤博文公と古くから近い関係のあつた家で、(伊藤公も亦た熊毛の産である、)家の什器の一つに、往年同公が英京ロンドンで手に入れたといふピストル仕掛けのステッキがあつた。さすがに巧妙に出来てゐて、外形はどう見ても普通のステッキと少しも違はなかつたが、折り曲げて見ると、中には極めて精巧なピストルが装置されてあつた。大助は猟を始めたいからと称して、その使用を父に請うた。かねてから一室にばかり蟄居してゐて、何だか物を考へてゐるらしい様子を見て
前へ 次へ
全13ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング