川均などいふ人が筆にすれば直ぐに発売禁止になるやうなことでも、私は伏字も使はずに平気に書いてゐた。昭和二年末、日本共産党が公然その姿を民衆の前に現はすに至るまでは、日本の資本家階級はまだ自信を失はずに居たので、大学における学問研究の自由については、まだ比較的寛大であつた。それに大正の初年に起された同盟辞職の威嚇によつて京都帝大の贏ち得た研究の自由は、牢乎として此の大学の伝統となり、私は少からず其の恩恵に浴したのである。)
さて山口の一旅館の二階で電報のため眼を覚まさされた私は、愈※[#二の字点、1−2−22]来たなと思つたが、電灯を消すとそのままぐつすり寝込むことが出来た。朝、眼を覚まして、案外落ち着いてゐるなと、自分ながら感心した。
その晩に私は山口を立つた。もうこれで大学教授といふ自分もおしまひだらうし、一生のうち再び機会はあるまいと思つたので、私は一等の寝台車を奮発した。辛うじて発車間際に乗り込んだので、私の慌てた様が物慣れぬ風に見えたのか、それとも私の風采が貧弱であつたためか、寝台車に入ると、すぐボーイがやつて来て、ここは一等だと云ふ。フムフムと返事をするだけで、一向に立ち退く様子も見せないので、ボーイはたうとう私に寝台券を見せろと要求した。案に相違して、ちやんと一等の乗車券と寝台券をポケットから出して見せたものだから、彼は無言のまま、渋々ながらも私のために寝台を用意してくれた。私は癪に障つたから三文もチップはやらなかつた。
京都駅に着いて見ると、急に西下した改造社の山本社長が、プラットフォームに立つて私を待ち受けてゐた。駅前には自動車が待たせてあつた。すぐそれに同乗して、氏は私を吉田二本松の寓居に送り込んだ。それから私は東京方面の情報を聴いたに相違ないのだが、どんな話を聞いたのか、今は総て忘れた。
その後改造社から送つて来た何百円かの原稿料は、すぐに返した。四月は大衆雑誌の書入れ時の一つで、どこの社でもいつもよりは部数を余計に刷る。殊にこの時の『改造』は三周年記念特別号として編集されたもので、頁数も多く、部数もうんと増刷された。それがみな駄目になつたのだから、私が改造社にかけた損害は少くない。それを賠償することは出来ないが、相手に大きな損害をかけながら、自分は懐を肥やすと云ふのでは気が済まないから、せめて原稿料だけでも犠牲にしようと、私はさう思つた
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