しばかり土を掘り抜くと水のふき出る場所が多いのである。
 放翁は更に樹木の類若干と草花の類若干とを雑へ植ゑたと云つてゐるが、これこそ私の最も真似したく思ふところである。私は大学生時代、下宿に居た頃には、縁日で売る草花の鉢をよく買つて来て、机の上や手摺のあたりに置いて楽んだものである。その頃、そんなことをする仲間は殆ど一人も居なかつたので、君は花が余程すきだと見えるなと、人から云はれ/\してゐたものだ、今、晩年に及んで、もし私をして好む所を縦まにするを得せしめたなら、私は自分の書斎を取巻くに様々なる草花を以てするであらう、私は松だの木槲だのを庭へ植ゑようとは思はない。総じて陽を遮る樹木の類は、無花果だけは私の好物なので例外だが、なるべく少いのが望ましい。紅梅の一株、たゞそれだけで事は足りる。花もつけず実もつけないものでは、私はたゞ竹だけを愛する。しかしそれも脩竹千竿などいふやうな鬱陶しいものは、自分の住ひとしては嫌ひだ。書斎の丸窓の側に、ほんの二、三本の竹があればよいと思つてゐる。その余の空地には、人為的な築山など作らず、石燈籠なども置かず、全部平地にしてそこへ草花を一面に植ゑたい。草花といつても、私は西洋から来たダリヤなど、余り派手なものは好まない。百日草、桔梗、芍薬、牡丹、けし、さうした昔から日本にある種類のものが好ましい。さうはいふものの、今の私にとつては、死んでしまふまで、たとひどんな小さな庵にしろ、自分の好みに従つて経営し得るやうな望みは絶対にない。たゞ放翁の文など読んでゐると、つい羨ましくなつて、はかなき空想をそれからそれへと逞くするだけのことである。
 放翁の東籬は羨ましい。だが、老子の小国寡民はまたこれにも増して羨ましく思はれる。
 大国衆民、富国強兵を目標に、軍国主義、侵略主義一点張りで進んで来た我が日本は、大博打の戦争を始めて一敗地にまみれ、明九月二日には、米国、英国、ソヴエット聯邦、中華民国等々の聯合国に対し無条件降伏の条約を結ばうとしてゐる。誰も彼も口惜しい、くやしい、残念だと云つて、悲んだり憤つたりしてゐる最中だが、元来敗戦主義者である私は大喜びに喜んだ。これまでの国家と云ふのは、国民の大多数を抑圧するための、少数の権力階級の弾圧機構に過ぎない。戦争に負けてその弾圧機構が崩壊し去る端を開けば、大衆にとつてこれくらゐ仕合せなことはないのだ。私は、日本国民が之を機会に、老子の謂はゆる小国寡民の意義の極めて深きを悟るに至れば、今後の日本人は従前に比べ却て遙に仕合せになるものと信じてゐる。元来、外、他民族に向つて暴力武力を用ふる国家は、内、国民(被支配階級)に対してもまた暴力的武力的圧制をなすを常とする。他国を侵略することにより主として利益するものは、少数の支配階級権力階級に止まり、それ以外の一般民衆は、たか/″\そのおこぼれに霑《うるほ》ふに過ぎず、しかも年百年中、圧制政治の下に窒息してゐなければならぬ。それは決して幸福なものではありえないのだ。今や日本は、敗戦の結果、武力的侵略主義を抛棄することを余儀なくされて来たが、それと同時に、早くも国民の自由は、見る/\うちに伸張されんとしてゐる。有り難いことなのだ。もしそれ更に一歩を進め、こゝ二、三年のうちに国を挙げてソヴエット組織にでも移ることが出来たなら、それから四、五年の内には、戦前の生活水準を回復することが出来、その後はまた非常な速度を以て民衆の福祉は向上の一路を辿ることともならう。
 私はそれについて、今ではソヴエット聯邦の一部となつてゐるコーカサスを思ひ浮べる。このコーカサスは、欧露と小亜細亜とを繋ぐ喉頸のやうなところで、南はトルコとペルシャに境を接し、東はカスピ海、西は黒海に面してゐる四十余万平方キロの土地で、その面積はほゞ日本の本土と同じであるが、(日本の本土は約三十八万平方キロ、戦前の総面積は六十七万五千平方キロであつた、)住民の数は僅に千二百万で、戦前の日本の総人口一億五百万に比ぶれば、殆ど十分の一に過ぎない。しかもそれが若干の自治州と七つの共和国に分れてゐるのである。小国寡民の地と称せざるを得ない。
 しかもこのコーカサスは、第一次世界戦争以前の帝政時代には、到るところに富豪貴族の別荘があり、ツァーの離宮もあつて、富豪や貴族が冬は避寒に、夏は避暑に訪れたところで、クリミヤ地方とともに、ロシヤの楽園と称されてゐる地方である。一般に園芸に適してをり、特に黒海沿岸では、非常にいゝ林檎や梨や桃を産するばかりか、バツーム市附近からは、蜜柑、レモン、橄欖の実などが盛んに産出され、葡萄も亦た沢山取れ、「新鮮な果物を食はうとする者は、必ずコーカサスへ行かなければならない」と称されてゐる。そればかりか、「絵を描かうとする者も、変つた人情風俗に接しようとする者も、
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