反感を残す。場合によっては、その反感がいつまでも消えず、時々思い出しては反芻《はんすう》するうちに、次第に苦味を増しさえすることがある。
 私のこうした傾向は人並より強いらしく思われる。京都にいる娘から羊羹《ようかん》など送って呉れると、同じ店の同じ種類の製品ても、友人に貰った物より娘の呉れた物の方を、私は遥にうまく食べる。格段に味が違うので、私は客観的に品質が違うのだと主張することがあるが、妻などは笑って相手にしないから、これは私の味覚が感情によって左右されるのかも知れない。(この一文を書いて四ヶ月ばかり経ってから、私はふと高青邱の「呉中の新旧、遠く新酒を寄す」と題する詩に、「双壷遠く寄せて碧香新たに、酒内情多くして人を酔はしめ易し。上国|豈《あ》に千日の醸なからむや、独り憐む此は是れ故郷の春。」というのがあるのに邂逅《かいこう》して、古人|已《すで》に早く我が情を賦せりの感を深くした。)
 とにかく私はそういう人間だから、もう半世紀近くも昔になる私の少年時代に食べたおはぎの味を、未だに忘れることが出来ずに居り、その記憶は、叔母の姿をいつまでも懐しいものに思わせてくれ、今も私を駆って、この思い出を書かしめて居るのである。

 感謝する姿はしおらしくて上品だが、不平がましい面を曝《さら》すのは醜くて卑しい。しかし此の思い出も亦自画像のためのスケッチの一つだと考えている私は、序《ついで》に醜い側をも書き添えて置かねばなるまい。――書こうと思うことは、自分の事ばかりでなく、他人の事にも関係するので、心の中で思っているのはまだしも、物にまで書き残すのはどんなものかと、私はいくたびもためらったが、やはり書いて見ようという気になって、ここに筆を続ける。
 大正十二年九月、関東大震災の後、津田青楓氏は、三人のお子さんを東京に残し、一人の若い女を連れて、京都に移られた。当時私は京都帝大の教授をして居たが、或日思い掛けなく同氏の来訪を受け、その時から私と同氏との交際が始った。(昭和八年、私が検挙された頃、青楓氏は何回か私との関係を雑誌などに書かれた。昭和十二年、私が出獄してからも、更に二回ばかり物を書かれた。で、初対面の時のことも、その何れかで委《くわ》しく書かれている筈である。)その後私たちは、毎月一回、青楓氏の仮寓《かぐう》に集って翰墨《かんぼく》の遊びをするようになった。その常連は、私の外には、経済学部の河田博士と文学部の狩野博士で、時には法学部の佐々木博士、竹田博士、文学部の和辻博士、沢村専太郎などいう人が加わったこともある。いつも朝から集って、夕暮時になるまで遊んだもので、会費は五円ずつ持ち寄り、昼食は然るべき料理屋から取り寄せて貰った。当時はすでに故人となっていた有島武郎氏が京都ではいつも定宿にしていたあかまんや[#「あかまんや」に傍点]という素人風の宿屋があったが、そこの女主人がいつも席上の周旋に遣って来て、墨を磨《す》ったり、食事の世話を手伝ったりしていた。(この婦人は吾々《われわれ》のかいたものを役得に持って帰ることを楽みにしていた。いつも丸髷《まるまげ》を結っていた此の女は、美しくもなく粋《いき》でもなかったが、何彼と吾々の座興を助けた。近頃聞くところによれば、何かの事情で青楓氏はこの女と絶交されたそうだが、今はもう亡くなって居るとのことである。)
 私はこの翰墨会《かんぼくかい》で初めて画箋紙《がせんし》に日本画を描くことを学んだ。半截を赤毛氈《あかもうせん》の上に展《ひろ》げて、青楓氏が梅の老木か何かを描き、そこへ私に竹を添えろと云われた時、私はひどく躊躇《ちゅうちょ》したものだが、幼稚園の子供のような気持になって、恐る恐る筆を執ったのが皮切りで、その後次第に大胆になり、青楓氏と河田博士と私とで山水の合作を描き、狩野博士がそれへ賛を入れたりなどされたこともある。河田博士は絵専門、狩野博士は書専門、私は絵と書の双方をやった。集っていた人の組合せが好かったせいか、手持無沙汰で退屈するような人は一人もなく、誰かが大字でも書くと硯《すずり》の墨はすぐ無くなるので、あかまんやの女将までが、墨磨りだけにでも一人前の役割を有《も》っていた。当時私は経済学の研究に夢中になっていた時代なので、月に一回のこうした清遊は、実に沙漠の中のオアシスであり、忙中の閑日月であって、この上もなく楽しいものに思えた。それは私が一生のうちに見た美しい夢の一つである。
 後年|囹圄《れいご》の身となるに及び、私は獄窓の下で屡々《しばしば》この昔日の清夢を想い起した。幸に生命があって再び家に帰ることがあったならば、今度こそは一切の世縁を抛《なげう》たねばならぬ身の上であるから、ゆったりした気持で時折青楓氏の書房を訪い、たとい昔のような集りは出来なくとも、青楓氏と二人で、絵を描き字を書いて半日を過すことが出来たならば、どんなに嬉しいことであろう。出獄の日がやがて近づくにつれ、私は頻《しき》りにこうした空想に耽《ふけ》り、とうとうそんな意味のことを書いて、一度は獄中から青楓氏に手紙まで出したのであった。(その手紙は青楓氏により表装されているのを、後に見せて貰ったことがある。)
 昭和十二年の六月、私は刑期が満ちて自分の家庭へ帰ることが出来た。僅か二十二円の家賃で借りたという小さな借家は、私の不在中に結婚した芳子の家と並んで、東京市の――数年前までは市外になっていた――西の郊外、杉並区天沼という所にあった。偶然にもそれは青楓氏の邸宅と、歩いて十数分の近距離にあった。何年か前に京都を引払って東京に移り、一時はプロレタリア芸術を標榜《ひょうぼう》して洋画塾を開いていた青楓氏は、その頃もはや日本画専門となられ、以前からのアトリエも売ってしまい、新たに日本式の家屋を買い取って、住んで居られた。それは宏荘《こうそう》とまでは行かずとも、相当の構えの家であり、もちろん私の借家とは雲泥の差があった。
 出獄後半年たつと、昭和十三年になり、私は久振りに自分の家庭で新春を迎える喜びを有ち得たが、丁度その時、正月七日の朝のことである、青楓氏が自分のうちで書初めをしないかと誘いに来られた。私はかねてからの獄中での空想が漸《ようや》く実現されるのを喜んで、すぐに附いて行った。
 二階の二間つづきの座敷が青楓氏の画室になっていた。二人はそこで絵を描いたり字を書いたりして見た。しかしそれは、私の予期に反し、獄中で空想していたほど楽しいものではなかった。何と云うことなしに索然たるものがあって、二人とも興に乗ることが出来なかった。時は過ぎ人は老いた、あの時の夢はやはり二度とは見られませんね、私は思わずそんなことを言って見たりした。
 昼食時になると、私たちは階下の食堂に下りた。この室は最近に青楓氏が自分の好みで建て増しされたもりで、別号を雑炊子と称する同氏の絵に、どこか似通ったものが感じられた。同氏は油絵に日本絵具の金粉などを混用されたこともあり、日本画専門になってからも筆は総て油絵用のものを用いて居られるが、この室も、純白の壁や腰板などは洋風趣味であり、屋根裏へじかに板張りをした天井や、竹の格子子《こうしこ》の附いた丸窓などは、茶室か書院かを想わす日本趣味であった。炬燵《こたつ》も蒲団《ふとん》へ足を入れると、そこは椅子になっていて、下げた脚の底に行火《あんか》があった。障子の硝子《ガラス》越しに庭が見え、その庭には京都から取り寄せられたという白砂が敷き詰められていた。
 炬燵の櫓《やぐら》を卓子にして、私は昼食を供せられた。青楓氏、夫人、令嬢、それから私、この四人が炬燵の四方に座を占めた。
 私は出獄|匆々《そうそう》にも銀座の竹葉亭で青楓氏の饗応《きょうおう》を受けたりしているが、その家庭で馳走になるのは之が最初であり、この時初めて同氏の家庭の内部を見たわけである。ところで私の驚いたことは、夫人や令嬢の女中に対する態度がおそろしく奴隷的なことであった。令嬢はやがて女学校に入学さるべき年輩に思えたが、まだ食事を始めぬ前から、茶碗に何か着いていると云って洗いかえさせたり、出入りの時に襖《ふすま》をしめ忘れたと云って叱ったり、事毎に女中に向って絶間なく口ぎたない小言を浴びせ掛けられるので、客に来ている私は、その剣幕に、顔を上げて見て居られない思いがした。しかし之はいつものことらしく、青楓氏も夫人も別に之を制止するでもなかった。そればかりか、夫人の態度も頗《すこぶ》る之に似たものがあった。食後の菓子を半分食べ残し、之はそっちでお前が食べてもいいよと云って、女中に渡された仕草のうちに感じられる横柄な態度、私はそれを見て、来客の前で犬に扱われている女中の姿を、この上もなく気の毒なものに思った。貧しいがために人がその人格を無視されていることに対し、人並以上の憤懣《ふんまん》を感ぜずには居られない私である。私はこうした雰囲気に包まれて、眼を開けて居られないほどの不快と憂欝《ゆううつ》を味った。
 私は先きに、人間は人情を食べる動物であると云った。こうした雰囲気の裡《うち》に在っては、どんな結構な御馳走でも、おいしく頂かれるものではない。しかし私はともかく箸《はし》を取って、供された七種粥《ななくさがゆ》を食べた。浅ましい話をするが、しゃれた香の物以外に、おかずとしては何も食べるものがなかったので、食いしんぼうの私は索然として箸をおいた。
 人は落ち目になると僻《ひが》み根性を起し易い。ところで私自身は、他人から見たら蕭条《しょうじょう》たる落魄《らくはく》の一老爺《いちろうや》、気の毒にも憐むべき失意不遇の逆境人と映じているだろうが、自分では必ずしもそう観念しては居ない。どんな金持でも、どんな権力者でも、恐らく私のように、目分のしたいと思うこと、せねばならぬと思うことを、与えられている自分の力一杯に振舞い得たものは、そう多くはあるまいと思うほど、私は今日まで社会人としての自分の意志を貫き通して来た。首を回らして過去を顧みるとき、私は俯仰《ふぎょう》天地に愧《は》ずる所なく、今ではいつ死んでも悔いないだけの、心の満足を得ている積りだ。破れたる※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍《おんぼう》を衣《き》、狐貉《こかく》を衣る者と、与《とも》に立って恥じざる」位の自負心は、窃《ひそか》に肚《はら》の底に蓄えている。しかし何と云っても、社会的には一日毎に世人がらその姓名を忘られてゆく身の上であり、物質的には辛うじて米塩に事欠かぬ程度の貧乏人であるから、他人から、粗末に取扱われた場合、今までは気にも留めなかった些事《さじ》が、一々意識に上ぼるであろう。そうなれば、いやでもそこに一個の模型的な失意の老人が出来上る。私は注意してそれを避けねばならない。――私はこんな風に自分を警戒して居ながらも、簡素な七種粥の饗応を、何んだか自分が軽く扱われた表現であるかの如く感ぜざるを得なかった。
 青楓氏が今の夫人と法律上の結婚をされる際、その形式上の媒酌人となったのは、私達夫妻であるが、私はそれを何程の事とも思っていなかった。ところが、私が検挙されてから、青楓氏の雑誌に公にされたものを見ると、先きの夫人との離縁、今の夫人との結婚、そう云ったような面倒な仕事を、私たちがみな世話して纏《まと》めたもののように、人をして思わしめる書き振りがしてあり、殊に「私は今も尚その時の恩に感じ、これから先き永久にその恩をきようと思っている」などと云うことを、再三述懐して居られるので、最初私はひどく意外に感じたのであるが、後になると、馬鹿正直の私は、一挙手一投足の労に過ぎなかったあんな些事《さじ》を、それほどまで恩に感じていられるのかと、頗《すこぶ》る青楓氏の人柄に感心するようになっていた。私は丁度そうした心構で初めて其の家庭の内部に臨んだのだが、そこに漂うている空気は、何も彼も私にとって復《ま》た甚だ意外のものであった。後から考えると、私はこの時から、この画家の人柄やその文章の真実性などに対し、漸《ようや》く疑惑を有
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