御萩と七種粥
河上肇
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)禄《ろく》十九石を食《は》む
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)元来|我儘《わがまま》な
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1−90−18]
[#…]:返り点
(例)応[#二]真意[#一]取組の内約仕置候間、
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私の父方の祖父才一郎が嘉永五年七月一日、僅か六畳一間の栗林家の門部屋で病死した時――栗林家の次男坊に生れた才一郎は、この時すでに河上家の養子となっていたが、養家の瀬兵衛夫婦がまだ生きていた為めに、ずっと栗林家の門部屋で生活していたのである、――彼の残した遺族は三人、うち長男の源介(即ち私の父)は五歳、長女アサ(即ち私の叔母)は三歳、妻イハ(即ち私の祖母)は二十五歳であった。これより十数年にわたり、私の祖母のためには、日夜骨身を惜まざる勤労努力の歳月が続いた。が、その甲斐あって、慶応三年という頃になると、長男源介は、すでに二十歳に達して禄《ろく》十九石を食《は》む一人前の武士となり、長女アサも十八歳の娘盛りになった。
かくて、私のために叔母に当るアサは、この年にめでたく藤村家に嫁いだ。残っている私の家の願書控を見ると、次のようなのがある。
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「私妹此度藤村十兵衛世倅規矩太郎妻に所望御座候に付、応[#二]真意[#一]取組の内約仕置候間、其儀被[#二]差免[#一]被[#レ]下候様奉[#レ]願候、此段御組頭兼重重次郎兵衛殿へ被[#二]仰入[#一]、願之通り被[#二]成下[#一]候様、宜敷御取持可[#レ]被[#レ]下候頼存候、已上。
慶応三年丁卯四月十一日 河上源介」
[#ここで字下げ終わり]
この控には、「四月二十七日被下被差免候」との追記がある。
叔母には子が出来なかった。そして、どういう事情からであったか、明治十年十月七日、彼女は藤村家から離縁になって家に帰った。その時二十八歳である。
しかし二ヶ月後の明治十一年一月五日には、玉井進という人の妻になった。この人は当時山口県庁の役人をしていた人で、叔母もまた山口に行った。
叔母が玉井家に嫁いだ明治十一年には、私の父もすでに三十一歳になっていたが、この年の六月十五日に初めて、同族河上又三郎の次女タヅと結婚した。それが私の母で、文久二年八月誕生の彼女は、当時十七歳、正確に云えば満十五歳十ヶ月であった。
私が生れたのは、その翌年の十月二十日である。従って以上の出来事は、みな私の見ることの出来なかった事実に属する。
しかし叔母に関する私の最初の記憶は、後に述べるような事情から、彼女が藤村家に居た時代にまで遡《さかのぼ》る。私は幼い頃、祖母に連れられて、幾度か叔母の許《もと》を訪ねた。
私の家は錦川に沿うて造られた土手に近かった。その土手の上を暫く城山の方に向って歩いてゆくと、渡場があった。舟に乗せて貰って向うへ渡ると、そこが川西と称される地帯で、叔母のうちは、その川西の山手にあった。川を渡ってから暫く街道を歩き、それから路地を右手に曲ると、そこは城山の峯尾の麓《ふもと》になるので、次第に急な爪先き上がりの坂道になる。こんもりと森の繁った薄暗いジメジメした坂を登って行くと、路の右側は深く掘れた細い横谷になっていて、谷底にはきれいな水が流れていた。叔母の家は、路の左側にあった。私はそこの二階で本を見せて貰ったことを覚えている。今では幼児のための絵本が沢山に出来ていて、普通の家庭に育った子供なら、早くから、色々の彩色を施した美しい絵本になじんでいるけれども、半世紀以上の昔である私の幼年時代には、そんなものは想像することも出来なかった。それに私の家は、私の父が家督を継いだ時、譲られたものは、家屋敷の外は質札ばかりであった、と云われるほどあって、書籍などいうものは殆ど一冊も無かった。で、偶々《たまたま》叔母のうちの二階で手にすることの出来た本は、私に非常な興味を感じさせた。それが何の本であったかは、今では想像して見ることすら出来ない。ただ私は、それが和綴《わとじ》の本で、中には色々な植物の花の絵などがあったのを、覚えているだけである。その時私はこれに非常な興味を覚えたものと見え、余所《よそ》で泊ったことなどまだ一度もないのに、今日はここへ泊ると云い出した。どうかなと案じながらも、祖母が私を残して帰った時、晩には藷《いも》を煮て食べさせて上げると云って、叔母は屋敷つづきの畑へ私を連れ出し、薩摩藷《さつまいも》を掘って見せた。蔓《つる》につれて黒い土の中から赤い藷がボコリボコリと出て来るのを見たのは、恐らくそれが生れて初めてであったろう、それがひどく私の好奇心をそそったために今でもそこの黒い土の色、そこから出て来た赤い藷の色の印象が、まだ眼に見えるように残っている。私はそんなことで昼間は上機嫌で過したが、やはり日が暮れて来ると、無暗《むやみ》にうちへ帰りたくなった。元来|我儘《わがまま》な子だったので、そう云い出したら無事に寝る見込もなく、とうとう夜になって、叔母は私を私のうちまで送り届けた。
こうした事のあったのは、私のいくつの頃であったろう。泊るなど云ったところから見ると、多分小学校へまだ入学して居なかった頃の事だろうと思われる。ところで私が小学校へ入学したのは、調べて見ると、明治十七年三月、私が満四年五ヶ月になった時だが、これより先き、明治十四年十一月一日に、叔母は玉井家から離縁になって戻り、間もなく十一月二十一日にはまた元の藤村家へ再縁している。それは私が満二年一ヶ月に達した時のことである。して見ると、私がここに書いたような記憶は、私が満二年一ヶ月から四年五ヶ月になるまでの期間に属するものと推定されるのである。私は、近頃まで一緒に住んでいて、今は上海に行っている、自分の孫たちの齢《とし》を算《かぞ》えて見て、絢子の方はもう四年五ヶ月以上になって居るのだから、私が死んだ後からでも何か思い出してくれる事があるかも知れぬ、などと考え及んだ。
さて、再び叔母のことに立ち返るが、叔母が一旦藤村家を出て後にまた再縁するまでの期間は、勘定して見ると、四年一ヶ月になる。この間に、藤村の方では、誰かを娶《めと》って復《ま》た離縁したのか、それとも死別したのか、私の記憶している頃には、叔母の産んだ子でない男の子が一人いて、私と同年であった。最初叔母が藤村家から離縁になったのは明治十年であり、私が生れたのは明治十二年であるから、話は丁度符合するのである。
藤村家へ再縁してから八年目の明治二十二年一月二十五日には、叔母はまた離縁になって戻った。こんな風にどこにも落ちつかなかなったのは、一つは自分の産んだ子を有《も》たなかったせいであろう。齢を計算して見ると、この時叔母はもう四十になっていた筈である。
藤村家から帰って来て翌年の明治二十三年には、叔母はまた稲田家へ嫁いだ。それは私の満十年九ヶ月になった時のことである。
稲田家は錦川の下流、海に近い田畑の中にあった。今では山陽線の下り汽車に乗ると、麻里布駅の次が岩国駅になっているが、稲田家はその麻里布駅に近く、私の家は岩国駅に近い。しかし当時はまだそんな鉄道など見ることも出来なかった。で、叔母は川舟に乗って嫁入をした。
叔母がその時どんな服装をしていたか、全く覚えていないが、ともかく彼女は私のうちを出て、土手を越し、竹藪《たけやぶ》の中の雑草の生茂った細道を通り抜け、川原畑の畦道《あぜみち》を歩いて、一面の石ころに覆われた川原に出で、そこから舟に乗ったものに相違ない。それは俥などの通り得る道ではなかった。祖母、父、母、私、弟、これがその一行であったであろう。末の弟は前年に生れてまだ誕生日を過ぎぬ頃のことであったから、多分誰かに預けられて留守居したであろう。
赤い毛氈《もうせん》を敷いた一艘《いっそう》の屋形舟は、一行を載せ、夏の川風に吹かれながら、鮎や鮠《はえ》などの泳いでいる清い流れの錦川を棹《さお》さして下った。
舟を下りてから稲田家までは、多分俥に乗ったであろう、私は今覚えていない。ただ覚えているのは、稲田家の門が寺の門のように大きく、扉には大きな鋲飾《びょうかざ》りなどが打ってあり、通された表座敷の襖《ふすま》には大字の書が張ってあって、芝居の舞台が聯想《れんそう》されたことである。
稲田家は当時士族になっていたが、明治以前は香川という家老の家来で、謂《い》わゆる復家来《またげらい》であったから、私のうちより家柄は低かった。しかし村での大地主で、家の構えなどもそのあたりでは宏荘《こうそう》なものに見えていたのである。
家風と云うか、生活態度と云うか、そう云った家庭の雰囲気は、貧しいながらも侍の家系を承け継いだ私の家と、おのずから趣を異にするものがあったが、叔母は日を経るに従って、自分の住む環境に同化して行った。そして遂にここでその一生を終ったのである。
自分の実子がある訳ではなく、食うに困る訳でもないのに、後には麦稈真田《ばっかんさなだ》などの賃仕事を引受け、僅かばかりの小銭を儲《もう》けることを楽みにしたり、すべてが次第に吝嗇臭《けちくさ》く土臭くなって来た。しかし当人がそれに安住して生涯を終られたのだから、(不幸にして彼女は母に先だち兄に先だち夫にも先だったが、)この最後の結婚は彼女にとって幸福なものであったのだと、私は考えている。
数え十五歳の時に、私は郷里の岩国学校(それは高等中学校の予備門となっていたもの)を卒業して、山口高等中学校の予科(高等中学校は当時本科三年、予科二年であった)に入学した。当時私は帰省する度毎に、大概叔母の所をも訪ねていたが、それはいつの休暇のことだったか覚えない、ただ私は一度そうした折に、叔母からおはぎを馳走されたことを記憶している。
叔母は私が甘い物の好きなのを能《よ》く知っていた。で、私が訪問すると、お前におはぎを拵えて食べさすと言って、台所の土間に下り立ち、餅米をといだり、小豆を煮たり、忙しそうに振舞いながら、私を待たせておいて、わざわざおはぎを作ってくれた。しかしその頃は、叔母がここへ移ってから数年を経過していた時だったので、叔母はもうすっかり田舎風になって居り、折角拵えてくれたおはぎも全くお百姓流のもので、生意気な学生である私の口には合わなかった。それは野良仕事をする人達の握飯みたいな大きなもので、ご飯ばかり多くて餡《あん》は少かった、砂糖も足りなかった。それに私はその頃神経質的に間食を避けていたので、正直に言えば叔母の好意は却《かえっ》て迷惑だった。しかし折角私のために作って呉れたものではあり、頻《しき》りに勧められるので、私はその大きな急拵えのおはぎを二つか三つ食べて帰った。
日暮時うちに帰って見ると、母は私のために夕餉《ゆうげ》の御馳走を拵えて待っていて呉れたが、おはぎのおかげで私は最早やそれを食べることが出来なかった。それを見て、母は私に、お前は人情負けをするからいかん、なんでそんな物を無理に食べたかと、小言めいた物の言い方をしたが、しかしあのおはぎは、私にとっては腹一杯食べずには居られなかったものであり、今になって考えて見ると、あれは私が生涯のうち頂いたものの中で最も有り難かった物の一つである。
人間は人情を食べる動物である。少くとも私は、人から饗応《きょうおう》を受ける場合、食物と一緒に相手方の感情を味うことを免れ得ない人間である。で、相手が自分の住んでいる環境の中で、能《あた》う限りの才覚を働かせて献げて呉れた物であるなら、たといそれが舌にはまずく感覚されようとも、私の魂はそれを有り難く頂く。それと逆に、たといどんな結構な御馳走であろうとも、犬にでも遣るような気持で出された物は、食べても実際うまくない。折角御馳走を頂きながら、私は少しも感謝の情を起さず、むしろ
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