《も》ち始めたもののようである。
 その後の十一月の末、私はまた河田博士と共に青楓氏の画房を訪うた。今度上京するのを機会に、昔のように翰墨会《かんぼくかい》を今一度やって見たいというのが博士の希望であり、私も喜んで之に賛成したのであった。吾々《われわれ》は青楓氏の画房で絵を描いたり字を書いたりして一日遊び、昼食は青楓氏の宅の近所にあるという精進料理の桃山亭で済まし、その費用は河田博士が弁ぜられる。そういうことに、予《か》ねて打合せがしてあった。
 その日私は当日の清興を空想しながら、
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十余年前翰墨間
  十余年前翰墨の間、
洛東相会送春還
  洛東相会して春の還るを送る。
今日復逢都府北
  今日復た逢ふ都府の北、
画楼秋影似東山
  画楼の秋影東山に似たり。
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という詩を用意して行った。画楼というのは元来彩色を施した楼閣の意味だろうが、ここでは青楓氏の画室を指したつもりであり、東山《とうざん》というのは京のひがしやまを指したのである。
 漢詩の真似事を始めて間もない頃のこととて、詩は甚だ幼稚だが、実際のところ私はまだそんな期待を抱いていたのである。しかし後に書くように、画楼の秋影は私のため残念ながらその昔の東山に似ることを得なかった。
 雑談を済まして吾々が筆を執り始めると、間もなく昼食時になった。ところがその時青楓氏から、桃山亭の方は夕刻そこで食事して別れることにし、昼は簡単な食事をうちで済ませてくれ、と申出があった。で、私は思い掛けなく再びここの家庭で饗応《きょうおう》にあずかる機会を有ったが、今度はその御馳走が余りにも立派なので、その立派さに比例する不快を感ぜざるを得なかった。私は正月の七種粥《ななくさがゆ》を思い出し、それと著しい対照を呈している今日の饗応ぶりを見て、簡素な待遇が必ずしもここの家風でないことを知った。そして私は、お前一人ならどうでもいいのだが、今日は河田博士に御馳走がしたいので、という意味の無言の挨拶を、その場の雰囲気や夫人の態度から、耳に聞えるほどに感じた。結構な御馳走が次から次へ運ばれるにつれて、私の心は益々《ますます》不快になった。人間は人情を食べる動物である。折角御馳走になりながら、私の舌に長《とこし》えに苦味を残した。それはその後|反芻《はんすう》される毎に、次第に苦味を増すかに覚える。――こういうのが恐らく落目になった老人の僻《ひが》み根性というものであろう、しかし私はそれをどうすることも出来ない。
 こうした類の経験が度重なるにつれ、それは次第に私をこの画家から遠ざけた。
 翰墨会の夢は再び返らず、獄中では、これからの晩年を絵でも描いて暮らそうかとさえ思ったことのある私も、今では、絵筆を手にする機会など殆ど無くなってしまった。
 以上の思い出を書いて郷里の舎弟に送り、母に読んで上げて貰ったところ、母の話によれば、叔母が稲田家へ嫁入りしたのは、明治二十三年ではなく、その前年の二十二年だと云うことである。私は父の手記に拠《よ》ったのだが、母の記憶によれば、当時母は末の弟を妊娠中だったとのことで、その記憶に間違いのあろう筈なく、これは父の誤記と思われる。当時末の弟は人に預けられて留守居したのだろう、などと私の書いたのも間違いで、弟はまだ生まれて居なかったのである。なお母の話によれば、舟を下りてから吾々は中宿《なかやど》の稲本家というに立ち寄り、叔母はそこで衣裳を改めたのだ、と云うことである。私は、私たちの家を出てから河原畑を通り抜けて舟に乗るまで、叔母はどんな服装をして居たのだろうか、紋服を着であの竹藪《たけやぶ》の間を歩いたものだろうかなどと、当時の様子を想像しかねて居たが、母の話のおかげでこうした疑問がすっかり解けた。結婚披露の宴が済んでから、私たちは人力車に乗って帰ったが、車夫がふるまい酒に酔っぱらって、喧嘩《けんか》など始めたため、吾々はみな途中から俥を下りて、歩いて帰った。これも母の思い出話である。
 序《ついで》に書き加えておくが、私が以上の本文の清書を了《お》えたのは、昭和十六年十二月十日のことであるが、私はそれから十日目の十二月二十日、満十二年ぶりに、東海道線の汽車に乗って、居を東京から京都に移した。その際、東京を引上げるについては、私は名残りを措しんでくれる一二の友人から思い掛けなき厚意を受け、忘れがたき思い出の種子を残すことが出来たが、ただ一つ心に寂しく思ったことは、世間からは無二の親交を続けて居るように思われている青楓氏と、まことにあっけない簡単な別れ方をしたことである。私は早くから同氏に転居の意思あることを話しておいた。そして、或日私は、北京土産に貰った玉版箋を携えて、暇乞《いとまご》いかたがた同氏を訪問した。これまで私は何遍か同氏を訪問しているが、不思議なほどいつも不在であり、この時も亦た不在であった。ところがその後夫人から手紙が来て、立つ時が決まったら知らしてくれ、送別の宴を張ると云えばよろしいが、それは出来ないので、お餞別《せんべつ》を上げるつもりだから、とのことであった。そして今居る女中は京都へ連れて行くつもりなのか、もしそうでなければ、こちらへ譲って呉れまいか、などと書いてあった。私は、立つなら物をやるから時日を知らせ、などという手紙の書き方を、不快に感じないわけに行かなかったが、しかし愈々《いよいよ》立とうという時にその事を知らせた。すると、丁度運送屋が来ていて混雑している最中に、青楓氏が玄関先きまで来られて、家内が食事を上げたいと云うから今晩二人で来てくれないか、との話があったが、取込んでいる最中そんなことは到底不可能だから断ると、それではと云うことで、玄関先きで別れてしまった。私は到底再び東京などへ遣って来られる人間ではなし、これで最早や一生の別れになるかも知れないと思ったが、同氏との多年にわたる交友の最後は、遂に斯様《かよう》な切れ目を見せたのてある。餞別をやるとのことであったが、――そして紙一枚でも好意の籠《こも》った贈物なら人並み以上に喜ぶ今の私であるけれども、――とうとう約束の餞別も受けずに済んだ。こんなことまで書き残しておくと、後で見る人はさもしくも思うであろうが、私は今「七種粥」の追記として、以上のことを書いておかねば気が済まないのである。
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(「河上肇著作集」第9巻、昭和39年、筑摩書房刊。歴史的仮名遣い。) 
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底本:「昭和文学全集 第33巻」小学館
   1989(平成元)年10月1日初版第1刷発行
底本の親本:「河上肇著作集 第9巻」筑摩書房
   1964(昭和39)年
入力:林 幸雄
校正:本山智子
2001年5月1日公開
2004年2月23日修正
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