る。――こういうのが恐らく落目になった老人の僻《ひが》み根性というものであろう、しかし私はそれをどうすることも出来ない。
こうした類の経験が度重なるにつれ、それは次第に私をこの画家から遠ざけた。
翰墨会の夢は再び返らず、獄中では、これからの晩年を絵でも描いて暮らそうかとさえ思ったことのある私も、今では、絵筆を手にする機会など殆ど無くなってしまった。
以上の思い出を書いて郷里の舎弟に送り、母に読んで上げて貰ったところ、母の話によれば、叔母が稲田家へ嫁入りしたのは、明治二十三年ではなく、その前年の二十二年だと云うことである。私は父の手記に拠《よ》ったのだが、母の記憶によれば、当時母は末の弟を妊娠中だったとのことで、その記憶に間違いのあろう筈なく、これは父の誤記と思われる。当時末の弟は人に預けられて留守居したのだろう、などと私の書いたのも間違いで、弟はまだ生まれて居なかったのである。なお母の話によれば、舟を下りてから吾々は中宿《なかやど》の稲本家というに立ち寄り、叔母はそこで衣裳を改めたのだ、と云うことである。私は、私たちの家を出てから河原畑を通り抜けて舟に乗るまで、叔母はどんな服装を
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